ラブ登山2

※60分以内でブログを書きます。

 

以前にも書いたことがあったかもしれないが、最近は帰宅直後に風呂を沸かして、家の電灯をすべて消して、暗闇の中で湯船に浸かってボーっとするということが日課となっている。暗闇の中でもしっかりと目を見開けば、かすかに外から漏れて入ってくる街灯や湯沸かし器など家電の運転状況を示す小さな赤や緑のライトが光源となって、シャワーヘッドの輪郭をおぼろげながら識別できる程度には視覚情報は入ってくる。「闇は人と人との距離、境界を曖昧にするから馴れ馴れしい」という表現を見たのは高校の全国模試だったろうか。都会のマンションの中では馴れ馴れしいと感じるほどの闇は体験したことはない。ただ、月明りだけが頼りの坂道の高架下の暗さは、馴れ馴れしいどころではない空間と自身との距離感の喪失を経験させてくれるということは知っていて、是非ともコロナ禍が明けた際には電灯の無い田舎に遊びに行ってみてほしいと思っている。

 

そもそもヒトは視覚に頼り過ぎていると思う。ヒトが何か学ぶ際には8割以上は視覚に頼っているという話を聞いたことがある*1。札幌に来てちびっこが眼鏡をかけていることに驚いた覚えがあるが、今では地元でも眼鏡のちびっこは珍しくない状況なのではという感覚がある。コロナ禍の影響で家にこもる時間が長いご時世においては余計に近くのものを注視する時間が長いのではなかろうか。

光が届かない場所や景色がひどく遮られている場所においては、この視覚に頼り切った自身の肉体をありありと体験できる。暗い場所が怖いように、見えない何かはとても恐ろしい。

山の中、独りプチ遭難中の私は誰の声も聞こえない、藪に視界を遮られた傾斜の途中でそんなことを考えていた。以下、昨日の続きの山の話。

 

虫を追いかけて人の声を無視し続けた挙句の果てに知らない山の中でどうやら一人になってしまったらしいことを悟った私は、とりあえず鬱陶しいアブどもの追跡を避けるべく草のあまり生えていないであろう山頂を目指すことにした。崖上になっていた急な岩場は2足歩行で進むには角度が急すぎる上に階段代わりの岩が安定しなかったので、素手をつかって四足で地表から遠ざかる努力をする。しかしながら、山に慣れているアブを振り切れる場所にまでシティホモサピエンスの貧弱な体力では到達できそうにない。岩をつかみ、山を昇っていくとまた再び木々の群れが視界を遮り、藪の中を進むことになった。一向に人が通れそうな道には出ないし、ツタは体中に絡まるし、ところどころ木の根が露出して穴のようになっているところからはスズメバチの大群かヒグマの子供でも出てきそうで気が休まることはない。森林に癒しを期待して入る人間はツアーコンダクターの煩わしさを計算に入れてもおつりがくるほど自然に癒されるだけ疲弊していなくてはならないと思った。ヒト一人で入るには、山は恐ろし過ぎる。

余談ではあるが、クマは犬の7倍の嗅覚*2を持つものもいるらしく、かつて北海道を開拓していた屯田兵の土葬死体を3km離れたところから嗅ぎつけてほじくり返して食べていたという話を聞いたことがある。

森の王者であるクマがその環境における最適な姿の一つであると考えると、視覚と聴覚はあまり役に立たない気がしてくる。非力で眼に頼り切りの人間では、考えなしに山を歩いても死ぬしかない。明日の朝刊に大学生1名遭難の記事がオリンピックの結果に押しやられて小さく申し訳程度に載り、それが墓標となることまでを想像して、私はちょうど座れそうなU字に吊り下がった太めのツタに腰を下ろして、山のふもとのマックスバリューで購入した53円の麦茶を飲んだ。少し冷静になってふと横を見ると、そこにはまだ湿り気のある30㎝程度の獣の糞が落ちていた。

恋を知りたくて山に入ったつもりが、愛する人の顔を走馬灯のように想像しなければならない状況まで一気に精神的に追い込まれた。あれ、遭難の果ての死因は捕食になっちゃうのかな?

 

時間になったのでもう寝る。気が向いたら明日完結させる。

 

※夏っぽい恋をテーマとしていそうなお気に入りの曲

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