粗品の手ぬぐいの方は銭湯のお供にしています

※制限時間40分で書くブログです。

 

朝のランニングのために3時起きをしても、まだ空が明るくなっていないことに気づいてから、最近は4時起きでランニングするようになって、いよいよ秋になると感じている。

札幌脳学校をはじめた当初からはてなブログのアカウントは持っていたものの、ちゃんとブログを書き始めたのは今年からで、とりあえず季節のネタを使うことが出来るうちに書いておこうと考え、日が短くなってきているという話をしようと思ったが、それに対して思うところは「ランニングに不便だな」くらいのもので、たいして膨らませることが出来なそうだと気付いた。ので季節感のある話は避けようと思う。

余談ではあるが、人の体内時計が定まるのに2週間ぐらいの時間が必要とされているらしく、時差ボケなどの解消にはその程度の時間を見た方がいいと聞いたことがある*1

 

4時頃に起床して、すぐさま走りに行くと心臓に負担であるから水を飲んだり、ストレッチをしたり、ボケッとして30分ほど過ごした後に外へ出て、ランニングを15~20分くらいするのが最近のルーティンになっているので、家に着いたときにデジタル時計で4時44分の表示を見ることがよくある。ホテルなどお客様を招く系のビルでは4階や4号室がなかったりするように、何かと4には不吉なイメージを抱き過敏に反応するジャパニーズピーポーが一定数いる感じがしていて、それに触発されてか、4のぞろ目を見るとちょっと興奮してしまう。

最近、私の母親が特にそういった不吉とされているものに敏感になってきている兆候があり、近所のコンビニを経営しているおじさんから1月あたりに粗品と書かれた白封筒に手ぬぐいと一緒に入れられた状態で貰う、日めくりのミニカレンダーの下端に書かれている、今日は学問成就の日です、みたいなプチ占いを気にしている。母はその内容をLINEしてくるのだが、私は既読だけつけてあまり気にしないようにしていて、気にしないように意識しているものの、その占いの不吉な結果に対しても4のゾロ目を見たときと同様の興奮を正直なところ覚えてしまう。

昨日も友人が元カノに呪われるのではないかと異常に怖がった様子を見たとき、結構興奮していて、なだめようとは試みたものの口調が笑ってしまっていたことをちょっと反省している。

他人の不幸を喜ぶ人間は自己肯定感の低い傾向にある的な話をちょっと聞いた気がするが*2、自分の不幸をたいした根拠もなく勝手に決められていることに対して興奮するこのある種の性癖は、何に由来するかもよく分からない。

 

ただ、なんだか熱が出たときに周りがちょっと優しくしてくれたり、学校をさぼって家でがんこちゃん*3とかをダラダラ見てても怒られなかったときの感覚に似たものを覚えるところがあり、ちょっとした不幸を報酬と感じる変な学習が小さいころに行われた結果、そんな他愛もなくみえる不幸の兆候には興奮するのではないかなどと妄想したりしている。

 

よく分からない感じになったが、40分経ったのでここで終わる。

 

※高校生の8月ごろによく聴いてた曲

youtu.be

汚部屋が「改善」しない話

※制限時間40分でブログを書いています。

 

部屋が汚いので都会にありながら、私の部屋の中には生き物がいっぱいいるのではないかと勝手に思っている。特に水周りはよく分からないカビやらコバエやらが湧いており、生命の豊かさを感じられるのが良い、ありのままの自分と相性のいい他種との共生、他人が寄り付かなくなるような汚部屋が「改善」していかない現実から目を背ける言葉がいくつも次から次へと思い付く。

部屋が汚いというのは称賛されることではないし、親、友人からも片付けるよう再三注意されているので、一応週に一度はお片づけをするよう習慣づけているつもりではあるのだが、彼らの納得するレベルまで部屋を片付けられたことが一度もない。内発的な動機付け*1のレベルとしては彼らほど高い所にないので、より頑張るモチベーションとしては褒めてもらうことくらいなものかと思うが、褒めてもらったことも一度もない。テスト前に現実逃避として掃除を始めるというあるあるを聞いたことはあるものの、それを「あるある」と共感できたことが無いくらいに、追い込まれても掃除はしない。

 

冒頭で都会では生物の多様性が田舎よりも乏しいのが前提であるようなことを言ってしまったが、実際どうなのかよく分からない。直感的に考えて、ヒトがヒトの生活を快適にすることに最適化してきた環境でヒトばかりが密集して暮らす都会は生き物が偏っていそうだが、田舎も田舎でヒトが特定の農作物を作るのに最適化した環境をつくるべくありのままの自然に手を加えることで出来た人工的な集落とも見ることが出来るので、自然豊かなイメージはあるが生き物の多様性という面ではどうなのかしらと考えることもできる。*2

 

掃除をしないことで得られる部屋単位での生物多様性も、感染症の歴史的に見て、不衛生が原因で蔓延する生き物を再発見しているに過ぎない気もしているし、何より近隣の住民に迷惑をおかけする可能性がある+賃貸なので汚し過ぎると余計なお金を取られる問題がある、という認識はあるので、ここまでいったらマズいというラインも一応あって、そこが意識されだすと定期的なお掃除以上に緊急お掃除を敢行するのだが、今年の夏はそれをする必要が無かった。あまりカビもコバエも湧かなかったのである。理由については、こまめにゴミの日を逃さないようになった、洗面所や風呂もたまに磨くことを覚えた、実習や実験であんまり部屋に居ないなど色々考えられるが、とりあえず言いたいこととして、私は成長している。

 

私に掃除をしろとアドバイスしてくれる人は多いが、掃除はしている、というのと、どのレベルで「掃除をした」と満足しているのか、が彼らに伝われば今日もブログを書いた甲斐があったなと思う。

40分経ったのでここで終わる。

 

※定期掃除のときによく聴いている曲

www.youtube.com

大学からの白封筒 雨の日の督促状

※制限時間40分でブログを書いています。

 

よく見れば毎日何かしら事件は起きているので、その日に起こったことをそのまま書けばブログの内容として使えそうなものだが、一応自分以外の登場人物のプライバシーに配慮して書いているので、お友達にとってすごく重要なイベントに巻き込んでいただいた際には逆にちょっと書くことに困ったりする。

だが、その一日の大半の部分をごっそりそぎ落として、日常的な数秒の部分を切り取って1000字くらいに膨らませて書くことがブログをやるうえで重要な気がするので、今日は大学から図書返却の督促状が届いた話を書く。

 

本を借りたのは6月、返却期限は7月上旬。私は借りていたことを忘れていたわけではないが返却期限を1週間過ぎてしまった時点で、なんだか返しに行くのが面倒になってしまっていた。毎朝ランニングをする際に図書館の前を通るし、ときどきランニングのついでに研究室による際にはリュックを背負って走ることもあるので、そこに返却用の図書を入れるという手もあった。毎朝が返却のチャンスであったにも拘らず、まだ読み切っていないから明日にしよう、走り出してしまったけど本を取りに帰るのもめんどくさいから明日にしよう、何も持たずに歩きたい気分だから明日にしよう、とドンドンと先送りして*1、今日私の家のポストに大学から白い封筒が届いた。

 

督促状と書いてあるチェックボックスに力強いチェックが入れられており、図書館の方の圧を感じつつ、心の中で「忘れてたわけじゃないんです。ごめんなさいね」と言い訳をしながら封筒を開いた。中には返却していなかった本のタイトルが列挙してあり、認知していない未返却本が無いかじっくりと時間をかけてその表を読んだ。一応、未返却だと思っていた頭の中の借り本リストと符合したので少しだけ安堵の気持ちもあったものの、認知していようがいまいが借りたものを返していないという事実は変わらない。

 

返却日を3日過ぎた時点で延滞した日数分図書館で本を借りられなくなるルールがあるので、むこう一か月以上は大学の中央図書館から家に本を持ってこられなくなることは現時点で確定している。それを知りつつその現実から目を背けて過ごしてきたというのに現物で突然静かな怒りのお手紙が届き、思いの外ショックを受けていた。余談ではあるが、バイリンガルが自らの行動や思考をきちんとコントロールする能力が高いという説を支持する研究が色々あったらしいが、どの研究も再現性という点で怪しく、振り返ってみたらそのような説を支持するような科学的根拠はなさそうだと分かったという話を聞いたことがある*2。別に私はバイリンガルじゃないけど。

 

明日こそ絶対に本を返すぞと思いつつ手紙を封筒にそっと戻して、ゴミ箱の奥に白い封筒を優しくねじ込んだ。明日は燃えるゴミの日。

youtu.be

 

別に握れなくてもいいんだよと伝えたい話

※このブログは40分以内に書いています。

 

悴(かじか)んだ君の手を握り締めると「このまま時間が止まれば...」って思う*1、とはならない人もいるらしい。確かに、性器よりも敏感な手を結ぶという行為は、ある種、性行為よりも相手と繋がりを感じられるような特別な感覚なのかもしれないし、その共有する感覚を相手からの侵略と捉えるのであれば、手を結ばれるほど内心を見透かされているようで恐ろしく感じる瞬間はないのかもしれない。

レクで女の子の手を握ることに対して躊躇する様子を「気持ち悪い」と冗談交じりに教師に指摘されて晒し者にされて以来、これを克服するのに努力してきたつもりではあるが、いまだにいきなり挨拶でハンドシェイクを求める相手には(性別関係なく)警戒してしまう。

 

話は少し変わるが、積極的に見せびらかすように公の場で手をつなぐカップルに3軍感が漂うのはどうしてだろう、というあるあるを聞くが、これについてはある種、自然な流れなのではないかと私は思っている。

というのも、テレビドラマで恋愛描写を映し出す際には決まって美男美女であるのに対し、現実に街を歩くそのテレビドラマと同じようなことをするカップルは、BGMもなければ俳優ほどキレイでもない何のストーリー性もない中での「手つなぎ」なので、知っているイメージから比較すると圧倒的に薄味であり、まずこれが3軍感の一因になってしまっているところかと思う。また、大部分のそれほど美しくない、いわゆる普通の人々にとって手を握れるチャンスなど限られているし、共感に重きを置くのであれば、なりふりなど構うことなく、この儚い時間の中で、一番手っ取り早くかつ効果的に相手と繋がった感覚を味わえる行為に配分することは理にかなった振舞だと思われるし、次が無いと思っているからこそ大切にしようとする意志が感じられる。

これを3軍だと思う観測者の目が汚れているのである。

余談ではあるが、自身は何も毒などを持たない生き物が毒のある生物に擬態することをベーツ型擬態と呼ぶらしく、ホソヘリカメムシの赤ちゃんはアリに擬態するらしい。*2

 

私が手を握るということに緊張する理由には、レクでのちょっとした心の傷のほかにも、手が汚れているor臭い瞬間が多いということもある。

私は人間以外、とりあえず触れそうなものにはガンガン触っていくので、こまめに手は洗っているもののいつも手がちょっと人より汚い、と思っている。思い込みなので、案外他の人の手も同様に汚いのかもしれないが、手を握ってもいいと思うような相手は尊敬する人物なので、自分の方が汚いと思っている状況で相手の手を握って相手に穢れを移してはしまわないか一瞬躊躇してしまうところがある。

さらに余談であるが、人工神経を組み合わせて機械学習でその情報を統合することで認識エラーを少なくした人工触覚の研究が進んでいるという話を聞いたことがある。*3とはいえ、「私の代わりにロボットハンドで握手しましょう。感覚は共有してますんで。」などとは仮にこの技術が広まっても、両手を失ってない限りすんなり納得してはもらえないだろうと思う。相手にも私の生身の手の感覚を伝えることがこの儀式では重きが置かれていると考えられるから。

 

久しぶりに私以外の人間が似たようなことを言っていたのを聞いて嬉しくなってこんな「手を握る」という話だけで長々と書いてしまった。

とりあえず、気安く手を握ってきた人々にはちょっと引っかかってもらえたらななどと思いながら手を合わせてみる。

 

ますかれーどホテルな話(後編)

※制限時間40分でブログを書きます。

 

同窓会にも呼ばれない私を昔のよしみで誘ってくれた男はみっちゃんという愛称で当時の仲間に呼ばれていたらしい。当時の仲間というのは、5年前、私が浪人していた時代に同じ男子寮(通称ドーミー)に住んでいた連中のことである。

ドーミー時代、私はみっちゃんと斜向かいの部屋に住んでいた記憶はあるが、みっちゃんと何か喋った記憶はほとんど無く、わずかに覚えている彼のエピソードは、富山育ちの元バスケットボール部員だと自己紹介していたことと、おそらく彼が覚えにくいと思っていたであろう英語の慣用句や数学の公式を自室の壁に貼っていたのがチラリと見えたことくらいのもので、この日みっちゃんに招集された理由が、久しぶりの再会から30分経った時点でも謎のままであった。

 

あまりにも関係が薄すぎる相手からの誘いということもあり、マルチ商法の勧誘だと決めつけていた私はバチバチに警戒しつつ怖いもの見たさで彼と会ったが、マルチ商法の勧誘でよく使うような小ぎれいな飲食店には案内されず、彼の宿泊するビジネスホテルの一室に通され、コンビニ飯の相談が始まってしまい、私の提案で召集されたにも拘らず遅刻してきた不届き者に料金負担のおつかいを命じることに決まった。

 

自分から招集したのになかなか自ら話題を振ってくれないみっちゃんと、他に召集されたドーミーメンバーが来るまで警戒モードを保とうと余所行きの私は良い具合に喋る量が釣り合って、意外にも楽しい会話を堪能できた。余所行きの私は、今後の相手との関係を配慮しないので普段の3倍くらいよく喋るし、よく笑う。それが一対一の場面だとより顕著になり、みっちゃんとは過去に喋った覚えがなかったにも関わらず、私はがんがん彼をみっちゃん呼びして頭をぽんぽんはたいていた。素面である。一応チョコレートをひとかけら、ここに来る前に食べていたので、酔っていたとすればチョコレート酔いである。

余談ではあるが、カカオに特有の成分であるテオブロミンを経口投与したネズミは作業記憶の課題の成績が向上するという話を聞いたことがある。*1

 

他のメンバーを待つこと1時間、ようやく1人が来て、残りのもう1人が来て全員揃ったころには午前0時を回っていた。BGMとしてつけていたテレビでは新型コロナウイルスの感染拡大状況を報告するいつものニュースがやっており、若者3~4人での密室の会食を悪者扱いしていて、まさしくその状況がちょうど整ってしまった現状に、つい素で笑ってしまった。私以外の3人は、「なんかマスク着けたくなってきたな」と言いつつも、着けるそぶりすら見せない。私は遅刻部隊の買ってきたサラダとかにかまをさっさと食べ終えて、ひとりマスクを着けたら後に続くひとも居るかなと思い、装着してみたが、誰も続かなかった。みっちゃんと私以外はそれぞれいくらか喋ったことも一緒に遊んだこともあるので、その後私-みっちゃん間での会話は展開されることはなく、午前3時になった段階で喋ることもなくなり、ホテルのペイチャンネルでアダルトビデオを見る流れになりかけたので、私はランニングの時間だからと部屋を出た。

その場に居たドーミーメンバーは酒の力を借りつつ*2、赤裸々に現状と将来の野望を語ってくれていたとは思うが、私はみっちゃんとのマンツーマンの時間から精神的な仮面を外すタイミングを失い、ずっと「楽しく」お喋りをしていた。

 

何はともあれ、浪人時代という私にとって忘れたい過去の一つである時期にともに似たような境遇に置かれた人たちが今は楽しそうにやっており、それが過去の私を少しだけ慰めてくれたような気がして、その日は久しぶりに前向きな気持ちで朝を迎えた。

 

前後編に分ける内容でもなかった気がする。40分経つので終わり。

 

※ドーミー時代お気に入りだった曲その2

youtu.be

ますかれーどホテルな話(前編)

※制限時間40分でブログを書いています。

 

大学の5年生になって、高校や中学のお友達よりも長い期間付き合いのあるお友達も数人いる感じになった。ただ、中学高校時代の3年と大学時代の4年は、客観的に見ると後者の方が長いのかもしれないが、主観的には前者の方が長いと感じている人が多い気がする。長いというよりも、よく覚えているといった方がより正確かもしれない。そのときの仲間と集まって、昔あんなことあったよなトークに花が咲いている雰囲気は、よく見るし、実際に見たことが無くてもドラマでの描写などで見たことがある人もいるかもしれない。

 

いや、むしろドラマなどを先に見て、大人になって久しぶりに会った相手にはこういうコミュニケーションをするものだと学んで、「懐かしい仲間」をみんなで演じあって、そういった共同作業、共通認識に支えられてあの雰囲気は成立しているのかもしれない*1

余談ではあるが、性的描写を含むコンテンツを見ること等によって形成される「女性はこころのどこかで強姦されたがっている」といった類の誤解をレイプ神話*2と呼ぶらしいという話を聞いたことがある。

私は昔の仲間で集まった時のやり取りで連呼される、「久しぶり」「懐かしい」がいまのところあまりピンときてなくて、その「懐かしい仲間達」の場面に参加する際は、演じているという感覚の方が強い状態で場に居させてもらっている。

 

先日、浪人時代の一年間同じ男子寮(通称ドーミー)で過ごしていた知人が仕事で北海道に来ていたので、ドーミーで一緒に過ごした人が召集されるということがあった。

中学高校の同窓会のお知らせも来ない私にその召集が回ってきたのも驚きではあるが、それ以上に北海道に仕事で来たドーミーメンバーがそんなに喋ったことのない男で、これはマルチ商法の匂い*3がする、と私は思った。

私の経験上、マルチ商法の勧誘ではちょっといいカフェレストランに連れて行ってもらえるうえに、そこの代金は奢ってもらえる確率が高いという認識なので、飯代金を浮かせるために参加した。マルチの場合、相手も(知ってか知らずにかは分からないが)私から搾取しようとしているので、そういう相手からご飯代をいただくくらいは全然心が痛まないようになった。(なってしまった。)

 

前もって指示された所定の場所に行くと、そこには主催の男はおろか、他のドーミーメンバーすらおらず、集合場所到着の連絡をしてから5分待ったぐらいで返信がきて、主催の男一人が現れて、彼の宿泊するホテルの部屋に案内された。

「約束したんだけど、まだだれも来てなくてね」と浪人時代あんまり喋ったことのなかった主催の男は馴れ馴れしくもいきなりため口をきいてきた。いつもなら、ちょっとひっかかってしまうところではあるが、不思議と嫌な感じはしなかったので、私もため口で「時間を軽視するような連中だから浪人したんだと思うよ」と返した。

 

マルチを逆手にとって飯が奢ってもらえると構えていた私は、財布を持参しておらず、おいしく食事するためにお腹も減らしてきたので、主催の彼が「他の人が来る前にコンビニでなんか各々好きな飲み物でも買ってこようか」と提案してきたときには、ちょっと拍子抜けしてしまった。一文無しの私は「時間に遅れてくる奴らが悪いから、罰としてあいつらになんか買わせてこよう」と提案し、金を持っていないことを告げずにそこを乗り切ろうとした。

 

40分経ってしまったのでここで中断。続きは明日書くかも。

 

※ドーミー時代聴いていたお気に入りの曲

youtu.be

Babyのすゝめ卍の話

※制限時間40分でブログを書いています。

 

弟(通称べびちゃん)が東京卍リベンジャーズ*1という漫画にハマっている。

私の6歳下である彼を寝返りすらうてない頃から眺めてきていて、初めて寝返りをうった瞬間の様子を記憶している*2くらいなので、私の中ではいくつになっても、彼はベイビーちゃんのイメージなのだが、そんな可愛いべびちゃんが初めて私に漫画をおススメしてくれた。

漫画好きの傾向は昔からあって、色々な流行りものの漫画を読んでは関連グッズを集めている様子を見てきたが、今までは私にそれらをおススメしてくれたことはなかった。べびちゃんと話題を共有したいと思い、誕生日に私の好きな本(福沢諭吉の本等)を毎年プレゼントしていて、その度にその本は床の上に捨てられて、それを拾って私が楽しむということを繰り返して、愚兄とは趣味が合わないと思われてきたためかもしれない。

どういう気まぐれでそういったおススメをしてくれたのかは謎だったが、べびちゃんがおススメしてくれたというそのことだけが嬉しくて、私は現在上映中の実写版映画から始めて、アマゾンプライムに加入して現在放送されている回までのアニメを一気に見た。

 

漫画を描いたり、映画を撮ったことがないのであまり強い言葉を使えないが、正直言って、面白いとは思えなかった。

作ったことのないジャンルの作品に対して、みんなに聞こえるように悪口を言いまくるというのはあまり好きではないので、どこが面白くなかったかは書かないが、とりあえず、これまで自身が面白いと思ったものをべびちゃんに押し付けてきたことに関してはとっても反省した。(べびちゃんにおススメされたことを押し付けられたとは思ってはいない)

ただその物語を通して、こういう世界観や考え方にべびちゃんは惹かれるお年頃なのね、ということと、この作品が3200万部を突破するような世の中なのね、と勉強になることはあった。

 

余談ではあるが、認知症の原因と考えられ、神経細胞死を引き起こす脳のゴミでおなじみの繊維状タンパク質凝集体をアミロイドと呼ぶが、このアミロイドは「ゴミ」と呼ばれるには相応しくないような規則的な構造を持ち、その規則正しい構造がゆえに、周りのタンパク質を鋳型のようにアミロイド状にすることが出来、自己伸長していけるらしい、という話を聞いたことがある。*3規則正しい芯を持つ不良品が、他のタンパク質にも影響して、母体となる細胞を破壊するという話だと私は解釈した。

作品に出てくる不良達の組織も、最初は中学生が数人集まってバイクを無免許運転するだけの集団だったが、そのボスのカリスマ性とそれを利用する小賢しい側近によって警察も手が付けられない半グレ集団になっていく過程が描写されているので、ちょっとこの話を思い出した。

 

べびちゃんは大好きだが、べびちゃんの周りの連中にはいけ好かないアホが多い気がして、あんまりいい気はしていないのだが、べびちゃんに嫌われたくないという思いと、交友関係に関しては口出しするものでもないという思いから、静観している。この漫画もべびちゃんにつく変な虫による影響であろうことを考えると、気が滅入ってきてしまうが、そこは忘れて、今はべびちゃんがおススメしてくれたというそのことにだけ目を向けて、その事実に酔っている。諭吉の本も、ある種元不良少年の書いた不良モノ作品と言えなくもない気もするのでいつか同じ趣味で楽しく語れる日が来ると都合よく考えている。

 

※東京卍リベンジャーズアニメの主題歌

youtu.be