玉ねぎ茶髪とイソギンチャクパーマにキレちゃった話

怒りという感情に任せて行動するとろくなことにならないことは経験上よくわかっているつもりなので、怒りを感じた場合にもそれを表現するかどうかは怒りのピークを越えたなと感じた後に判断することにはしている。

しかし、行動は抑制できても感情として立ち現れる怒りはどうにも制御しがたいものがあり、最近ではお友達に「キレることあるんですか?」などと聞かれたこともあるが、「キレている」を表現していない(できていないのか)だけで怒りを感じることは日常生活でしばしばある。

 

今回のブログでは私がどういうことでキレているかということを示す一例について書いていこうと考えているが、ブログを書いている時点がキレた時点から1時間以内であるため、極力攻撃的にならないよう気を付けて書くつもりである。

話はちょっと逸れるが、数か月前に読んだ本で誰しも殺人衝動を抱えているもので身近な人を殺す妄想をしてしまうのは普通のことであるというようなことが書いてあった本を読んだのを思い出した。*1

今回の例でも瞬間的に〇してしまいたいと他人に対して一瞬思った例ではあるので、そのつながりで想起されたものではないかと思われる。

 

前置きが長くなってしまったが、実際の時間にすると4秒くらいのちょっとした出来事だったのでもったいぶるほどの話でもない。さっさと本題に移ろうと思う。(だらだらと本題と関係ないことを長く振ってしまうこともキレやすいのと同じくらい治したい私の悪癖である。)

 

夕方、日が傾きかける時間帯に私は散歩をすることを最近の日課としている。

というのも、日が長くなり19時を過ぎてもまだある程度明るく、気温も日中ほど暑すぎず歩くのにちょうど良く、一日の中で日光を浴びる機会として適当であると考えたためである。目的は日光浴と軽い有酸素運動である。早朝のランニングも継続しているが、運動による認知能力への影響が見られるのが10時間程度であるということを本で読んだので*2、暇がある今は夕方にもちょっと歩いて夜に勉強する際の気分転換程度のお気持ちで始めて見た。日光浴はうつ病対策*3のつもりでもある。

早朝と違い、帰宅時間であるということもありある程度の人通りがあって、会話が聞こえてきてしまうので、考え事をしたいときにはヘッドホンで歌詞の聴き取れない洋楽を聞きながら歩くことにしている。今回はLimp Bizkit*4の曲をBGMにゆっくりとひたすら東に向かった。

札幌の街は、碁盤の目状に区画が整理されているので方位磁針を使わずともおおよそ一定の方角に向かって歩くことができる。知らないところに向かっても標識を頼りに家に帰れるので地図アプリも参照せず太陽を背に舗装された道をまっすぐに進んでいった。

その道中で交通量の多い太い交差点に差し掛かった。歩行者用信号の青が点滅していた。点滅した時点で横断歩道の前に来ていたので走れば対岸にまでという目算もあったが、急ぎの用もないので私はそこで立ち止まった。信号が赤に変わったと視認したと同時に自転車三台が私の右腕をかすめて、三台はのろのろと横断歩道を渡り始めた。

三台のうち一台は二人乗りで、玉ねぎの皮のような薄汚い茶髪の青年とイソギンチャクみたいな広がり方をした髪型で妙なツヤのある黒髪の青年が重なるような形で一個として動いていた。二人乗り以外の2台もその二人乗りの後ろをついていく形で並走していた。それぞれ運転手は不自然なカタチで額を露出した黒髪のパーマ青年とカマキリの幼虫のような色の頭をした金髪青年であった。二人乗りを律速としての移動であったため案の定車道側の信号は三台が横断歩道を通過途中に青に変わり、帰宅ラッシュの車の列がほんの数秒ではあるが立ち往生する状態が生まれた。

私は狭い道を三台の自転車で連なって移動しているのを確認していた時点でもうすでにちょっとキレていたが、腕をかすったこと、交通の妨げとなっていること、乗っている人間がヘラヘラと笑っていて気持ち悪いことなどが重なって、頭に血が上った感覚を認めた。

冷静に考えて、結局車が立ち往生していたのも2秒程度であったと思うし、自分にぶつかられたわけでもないし、事故にはなっていないし、何より全然知らない人が恥知らずな行いをしているだけなので怒る意味は全然無いと今では思うのだが、その現場での4秒の間に私は明らかにその知らない青年達に対し殺意めいた怒りを感じていた。

くだらないことでまたイラついてしまったなと反省して、次の青信号で横断歩道を渡ることはせずにそこで踵を返して帰路についたのだが、家に着くころにはこの話をネタに久しぶりにブログ書けるじゃんと機嫌は直っていた。

アンガーマネジメント*5なる怒りを科学的に制御していこうという試みもあるのは知っていたが、多少心得ている程度では怒る機会そのものを減らすことはできないものだなと生まれついての性格を反省する良い機会となったと思う。

毎日最低3㎞走る男が1時間足らずの試着で疲弊した話

※この文章は60分以内という制限時間の中で書いたものです。

 

やりたくないことをやっていると疲労感を覚え、「ストレスが溜まっている」と口走る方は多くいらっしゃるかと思うが、これは誤用であると思う。ストレスという反応はそもそも「逃走か闘争か」といった状況で起こるもので、疲労感を麻痺させてその危機的状況を脱するために起こる一種の疲れに対する麻酔のような生体反応のことで、疲労感を感じているという状況においてはストレスを感じていないはずなのである。これは言い換えれば、けっこうハードな毎日を送っているのに疲労感を感じずはつらつとしている人こそ常時ストレスにさらされている可能性があるとも考えられ、過労死などはこういったストレスによる麻酔で身体に蓄積した疲労に自覚がなくなってしまうために起こるものという見方もある。*1

私はその意味でストレスフリーな生活を送っているので、割といつも疲れた顔をして人に会うことが多く、「死んだ魚の目をしているね」「ボロボロのヤギみたいだね」などと形容されることがしばしばある。

疲れた顔をしていると周りに気を遣われてしまい申し訳ないと思うので、日々ランニングをして体を鍛えつつシッカリと睡眠をとり、食事にも気を遣うようにはしているがいまいち緊張感のない毎日を送っているせいかストレスをあまり感じず、夜にはちゃんと疲れて眠れる。

 

今回はそんな私が久しぶりに服を買いに行き、慣れない試着室で緊張してストレス状態に陥ったあげく、そこから解放された際にどっと疲労感に襲われて10時間くらい(普段の倍)眠ったというお話を書いていこうと思っている。(ここまでで残り38分)

 

ことの発端としては、後輩から「私服がダサすぎるので一緒に選んでやる」との申し出を受けて、良い機会だと思いそれに乗ったところから始まった。

実際私には、(それが身になっているかは置いておいて)お勉強ばかりしていて私服がパジャマ並みにダサいという理由から「がり勉パジャマ野郎」略して「がりぱじゃ」という通称があり、過去に服の首周りの部分がボロ雑巾の様になっているパジャマで講義を受けていたところ全然喋ったことのない学部同期に「心配になるのでそのファッションはやめてくれ」と注意されたことがある。

相手があまり喋ったことの無い人間だったので、そんなこと言われる筋合いはないと一瞬思ったが、相手にとっても私は喋ったことのない奇妙な格好をしている成人男性なわけで、その気持ち悪さなり得体のしれないものに対する恐ろしさから推測される「話しかけリスク」を乗り越えて私を不快にさせない心づかいの感じられる言い回しで注意してくれるその勇者の行動に胸打たれて、私はそれ以来パジャマで講義を受けることはしなくなったのだが、服の選び方を勉強したわけではないので普通にダサい男子大学生になっているというのが現状である。

そんなおダサな私をコーディネートしてくれようと後輩はユニクロ無印良品を一緒に回ってくれて、あまりにダサすぎて手がつけられないと、最終的に店員さんにコーディネートしていただく次第となった。この時点で私は結構後輩に対する申し訳なさと自身のファッションに対する感覚の未熟さのために無力感を覚えていて、店員さんが私のコーディネートを考える上での事情聴取をしてくださっているのも上の空で応答しており、正直自分がそのとき何を言っていたかあまり覚えていない。

余談ではあるが、体内で合成される麻薬様物質の中でも大麻成分似のものをエンドカンナビノイドと呼ぶが、これはランナーズハイなどの際に出て苦痛を忘れるのに一役買っているのではないかという見方もあり、苦痛な記憶の忘却にも作用しているのではないかという話もある*2

そんなわけで、店員さんや後輩にご迷惑をおかけしながら試着室までたどり着いたのだが、店員さんのご厚意で3パターンものトータルコーディネートを用意していただいたのでここから結構な時間(といっても1時間足らず)をその狭いカーテン一枚で隠された空間に閉じ込められることとなった。

またまた余談ではあるが、体感の時間がいつも感じているものよりも長く感じる現象にはアドレナリンが関与しているのではないかという見方がある*3。(緊張しているときは時間が長く感じるのではないかという話)

結局私はお金の持ち合わせが足りないことを理由に、服を一着も買わずに店を出たのだが、後輩には「むしろ退歩したかもしれないですね」と呆れられてしまった。

その日は雨だったので、傘もささずに濡れたまま夜道を歩き、帰宅後は歯も磨かず気を失うように眠った。

 

久しぶりに慣れないことをしたという意味では私にとってはいい経験であったが、多大なるご迷惑をおかけしたうえに結果が出なかった不甲斐ない話である。

聴書感想文「論語と算盤」を聴いて

※このブログは60分という制限時間を設定して、その中で書いている文章です。

 

次の一万円札の顔となる人物が渋沢栄一であるとの風の噂を聞いて、audibleにて「論語と算盤」*1という本を購入した。audibleとは本の内容をいい声の人が音読するサービスである。月に一冊分のaudible用の「本」を買えるコインが貰えるというサブスクに登録をしているので、3月くらいに購入したこの「本」を、ランニング後の入浴の時間と皿洗いの時間に少しずつ聴き進めていた。

渋沢栄一が何者であるかはこの本を聴く前にWikipedia*2を参照したところ、現在のみずほ銀行一橋大学理研を設立したというとんでもない人で、その人が書いた本の中でもベストセラーになっているのがこの「論語と算盤」という作品らしいということで、結構期待値が上がった状態で聴き始めた。

全体を通しての感想としては、

この本は昭和3年(1928年)に初版が発行されたものらしいが、いまだに日本人の道徳や経済活動に関するあるあるが古臭さを感じさせるものではなく、日本という国に生きる人の普遍的な性質を述べている感じがあって、100年近く読まれ続けるのも分かる気がした。その反面、こんな100年前に危惧されている問題を未だにあるあると引きずっているなんて世の中はあんまり進歩していないんだなというのを感じたし、このおじいさんのこうなったら良くないよねといっている方向に日本は進んでいる気がして、ベストセラーというからには100年間読む人が一定数居続けたにも関わらず世の中があんまり変わっていないと感じるのにはどういうわけがあるんだろうと疑問に思った。

言葉の言い回しが古かったり、聴いているだけで文字を見ていないがために、何を言ってるのか分からないところも所々あって、一度「通読」しただけではその内容を把握しきれていない感じはあるが、「Aをするのは良いことだけどやりすぎるとBという問題が生じるのでちょうどいい感じでやれ」という構造の短いお話が数十本、自分の体験談を例に述べられているというスタイルであったと思う。

中でも特に今現在個人的に頭に残っている話は、女性教育の重要性についての話で、内容的にはざっくり、立派な人物は賢い母親から生まれるものであるから、女子も今後ちゃんと教育していかないと社会はアホばかりになり兼ねないという話で、昨今SNS上で「活躍」する声の大きいだけの「フェニミスト」は女性教育を雑に扱ったことによる副作用なのかな等と考えた。

他にも勉強すると捻くれるみたいなことを言う人間に対する反論の話や、なんでもかんでも海外と言っとけば進んでると感じるのはいい加減に卒業しようという話、心根が偽善であっても結果が善であればそれは全部善だし逆もまた然りという話、一時失敗して見える者も死後成功していると見なされることもあるよという話などが印象に残っていて、とりあえずもう一周目は書籍で読む価値がありそうな本だと思った。

 

※本が読めない人はYoutubeに色々と解説動画があがっていたのでそちらを参照されると良いかもしれません。漫画版*3も読みましたが、これは分かりにくかったし今回「読んだ」内容の魅力を表現できているものとは思えなかったので、お勧めしません。

それでもう〇こはきっと不味いと思う話

※3月に引き続き、この文章はタイマーで60分をセットして、その制限時間いっぱいで書いている文章です。

 

人の味覚と嗅覚は化学受容という分類がされる感覚で、環境にある化学物質を体のセンサーに引っかけることで感知している。正確に言うともっと受動的な感覚なので、用意したセンサーに引っかかる化学物質だけを感じることができるといった方がいいのかもしれない。

人工的につくるセンサーの中でも最も研究が進んでいないのが嗅覚センサーであるという話を聞いたことがある。*1臭気判定士という国家資格でいまだに人間の嗅覚の「正常さ」を確かめる必要があるのはセンサーではいまいち定義できない匂いについても対応しなくてはならないという事情も絡んでいるのではないかと思っている*2

味覚についてもまだまだ分からないことだらけらしい。テレビで味覚センサーをつかって味の評価をするロボットがいるという話を聞いたことがある*3し、匂いとは違って基本の味は5味(甘味、うま味、苦味、塩味、酸味)だと大まかな分類分けは済んでいそうなので、ずいぶんと分かっていそうな感じはするが、食べ合わせによって結局どういう味になるのかといった話は分かっていないし、ソムリエとかいう怪しげな職(?)がまだまだ公にまかり通っていることを鑑みるに、味覚も視覚や聴覚といった物理的な感覚よりも研究が大分遅れていそうな感じはする。

食事をするときに、皿のうえの食材に化学物質として何が含まれているかが分かれば、凡そどういった感覚を経験するかは予想できそうな気もするが、味や匂いとして体のセンサーが情報を処理するのと加えて、ヒトの場合、栄養状態や心理的な状態がその感覚に影響するらしい*4ので、万人にとってうまい料理を振舞うというのは限りなく不可能に近い挑戦なのではないかと思われる。

逆に言えば、万人が食ってまずいと思う食物を探すというのも難しいのではなかろうか。

という流れで、経験で食体験が変わるというのであれば、教育や情報操作も含め、処理の仕方次第でうんこも美味しく食べられる余地があるのではないかという妄想に進んだたというのが今回のブログの趣旨である。

うんこを食う哺乳類はいるというのは予備知識として知っていた。うさぎは消化する能力が低く、食べ物からうんことして排泄された一回目の初うんこをもう一度食べて、2周させることで食べ物の栄養をしっかりと取る。ゾウの赤子も離乳食代わりに親のうんこを食べるという。

それらの動物がどれくらい人間に遺伝的に近いかは知らないが、進化の途中のどこかで飢餓を耐え忍ぶためにうんこを食べる猿がいたとしてもおかしくないのでは、と思いちょっとググってみるとチンパンジーもたまにではあるけれどウサギと同様の理由でうんこを食べるらしいという記事を見つけた*5

チンパンジーがうんこを食べるのなら、たまにチンパンジー以下の脳をしていそうな人間を観測することから、人間でもうんこを食べているひとは要るのではないかと思い、「うんこ 食べる 人間」で検索をしてみた。

いた…沢北並みのドライブ*6

これが本当に食べている人のブログである保証はないが、私はけっこう興奮した。

治療法として健康な人のうんこを肛門から腸に流し入れて、健康な人の腸内細菌叢を移植するというものがあるというのは知っていた*7が、口から(しかも趣味で)日常的に摂取する人類が居るのを初めて認知したことに興奮したのである。

大学5年目にしてうんこで喜んで、恥ずかしい大人だなとふと我に返り、妄想はここでやめた。

とんかつの衣を剥いで白飯を3杯食べた話

※この文章は60分タイマーをセットして、タイマーが鳴ったらその場でオチを付けて投稿するという方式を採用して書いています。

 

新入生歓迎会を生まれて初めて、開催する側になっている。定期的に同じメンバーと顔を合わせるためにどこか特定の場所に集まるという既存のサークルの様式が生理的に受け付けず、自分で「会わなくていいサークル」をつくろうと始めた札幌脳学校であったので、これまでわざわざ場を設けてまで誰かを歓迎するという行事を開いたことなど、あろうはずもなかった。

新入生歓迎会を催したことはないが、参加した経験はあるので、どういったことが行われるかについて大体のイメージは持っていて、その参加者経験を元に今月新入生歓迎会を開く予定である。

逆になぜ今までやってこなかったくせに、活動3年目にして急に新入生歓迎会をやる気になったかというと、後継者を募集しなくてはならないと思い至ったからである。

私は今期で学部5年目になり、来年度は国家試験を受けた後に卒業してしまう。

国試を受ける年に、私は海外の大学院に進学したいと考えているので受験勉強と国試の勉強を並行しながら次期後継者探しもしている余裕は来年度にはもうなくなっていると考えられる。卒業研究もあるし。

そして、この誰が校長をやっても同じシステムである札幌脳学校のゆるさを活かして、どうせなら1年生に校長を継いでもらった方が、入学のハードルも下がるし、校長になった1年生は色々な学年の人と大学の最初期から接する機会を得られて、一番そのポジションを有効活用できそうな気がしているというのも、新歓と後継者探しを同時に今行っている理由の一つになっている。

女性が校長になってくれた方が、窓口としても仕切り役としてもうまく機能しそうな気はしているが、そんな面倒くさいことを利口な女性がするとは思えないので、結局二代目も男になるのではないかと予想している。

 

今回のブログのタイトルである、「とんかつの衣を剥いで白飯を3杯食べた話」というのは、私が初めて参加した新入生歓迎会でとった対応で、参加者経験をベースに新入生歓迎会を企画しているという話と一応関連付けたタイトルにしたつもりである。

新入生歓迎会に行くモチベーションが「飯をおごってもらえるから」以外なかった私としてはコロナ禍におけるオンライン新歓は魅力を一ミリも感じないイベントであり、新歓には飯を食いに行き、かつ、周りの目もはばからず自分の好きな食べ方で遠慮せず腹十分まで食べ散らかした挙句そのおごっていただいた団体に籍も置かないような私と、今回のオンライン新入生歓迎会に参加してくれる新入生ではきっと考え方が全く違うだろうという期待もあって、とても楽しみにしている。

 

毎度このブログには話の根拠となる参考文献を載せることをノルマとしてきたが、今回の話は私の新歓に対する心の持ちようで終始していたので、参考もなにもない。

無理やりこじつけ的な話題の入れ方を考えるとするならば、とんかつの衣→油→ω-3脂肪酸と連想して、そのω-3脂肪酸(魚の油とか)が鬱感の抑制に効く(かもしれない)という分子メカニズムについてちょっとわかったきたという話でも載せておこうか。*1

あるいは、最近の腸内細菌ブーム的な要素も盛り込んでみるのもよいかもしれない。油を取ると快感を得られるけど、その快感は油を連続で取り続けると減っていき、同じ快感を得るのにはより多くの油を摂取する必要になって、結果的にどんどん油を欲するようになっていき太るという肥満のモデルがあって、その油に対する快感抑制に腸から分泌される物質による脳への作用が関連しているのではないかという話がある。*2

このくらいで今回の豆知識パートは勘弁してほしい。深夜だし。(通り越してもう朝になりかけているけど)

思いの外3分ほど余ってしまったが、まぁ思い付きでバチバチ打ったせいで文字数がおおくなってしまったのでここで終わっておく。

最後まで読んでいただきありがとうございました。新入生歓迎会がんばります。

同期の卒業アルバムに残した落書き

日本の制度上、大学に入学している人間は18歳以上である。現在日本人の寿命の中央値は90歳近くなっているらしく*1、単純に考えて我々北薬同期のうちの半数は卒業時点で人生が残り65年以上あると期待される計算になる。この後、「100年前の大正時代の寿命が40代前半*2で、薬学の進歩による影響がうんたらかんたらと述べた後に、その科学的進歩を現在進行形で推し進める人材となり得るスタートラインに我々は立ったのだ。さぁ未来に向かって羽ばたこう」的なノリは散々こすり倒されている挨拶文だと思うので、この方向性は避けようと思う。話は卒業時点で人生が残り65年だというところまで進んでいた。この寿命に関する話は、物理的にあと何年間生命体として恒常性を保っていられるかという話に過ぎず、生きていると自覚できる時間は恐らくもっと少ないと考えられる。人生を体感時間ベースで考えると18歳で半分ほど終わっている*3という話もある。認知症になって記憶が消えた後にもなお残るのは幼少期の記憶であることが多いらしいとも聞く。*4

つまり、我々が大学で18歳以降の寿命を削り過ごしてきた時間というのは記憶という観点からの人生でも大したウェイトを占めていなさそうなのである。メモリ面において大したウェイトを占めてい無さそうなのに加えて、物理的にも、残りの社会人(あるいはニート)として過ごす時間と比較すると短い。あえて言ってしまえば、そんな大学生活の僅かで薄い記憶の中での間柄を後生大事にして同期のみんなをずっと忘れずにいようぜというのは、すごく後ろ向きな考え方な気がしている。

 

結局何が言いたいかというと、このアルバムはなるべく写っている本人が開く機会は少ない方がいいもので、もし同期の人間でこんな私の長ったらしくて遠回しな文章を読んでいる暇な者があったら、もっと現在を楽しめる有意義な方向に寿命を費やしてほしいと言いたいのである。人生の体感的な短さを考えると思い出などに浸っている猶予はないはずで、このアルバムを開きこの長文をこのパートまで読み進めた者は大いに反省して欲しい。物理的な残り時間などあてにせず、月並みな言い方になってはしまうが、今を楽しく生きて欲しい。

今後ともお互い頑張っていきましょう。さようなら。

探求心について妄想を広げた話

※この文章はタイマーを60分にセットしてからよーいドンで書き始め、タイマーが鳴ったら文章が途中でもそこで書くのをやめて投稿するというルールで書いたものです。

 

本文:

最近は探求心について注目して周りを見ている。そうなったきっかけとしては、お友達の就職活動を傍観していて、彼が自身のアピールポイントとして探求心の強さを挙げていたということが大きい。

私は大学の学部生として学部内の研究室に所属しているが、そこには給料を貰って本職として研究活動をしている教員と、給料を貰わずに教育カリキュラムの一環として「研究活動」に参加している学生が混在しており、探求心が核となりそうな活動をするための部屋でありながら、探求心が強い人とそうでもない人が共存しているように見える。

基本的に教員サイドの人間はそもそも本職として給料を貰えるまでにならないためか、探求心の強い人が多い傾向にあり、目新しい話題をふると質問をたくさんしてくるし、逆に相手が知っている分野の質問1したら10以上返ってくるイメージである。

これが博士課程の人間となると急に探求心がそうでもない人間が結構現れだす気がしていて非常に面白い。博士課程まで行くとなれば、博士という学位を取得するために大学にお金を払って20代ほとんどまるまるを大学に捧げる覚悟が必要なわけで、そういう決断をしたうえで大学に残っているような層にけっこう探求心のない人間が混じっているというのが私の見立てであり、この探求心がないのに博士課程まで来ている人間が結構見られるというのが意外で面白いのである。

偶然私の周りがそうなっているだけである可能性は大いにあるし、探求心を定量的に測る尺度を用意した上で言っている話ではないので、これは憶測の域を出ない話ではある。なので、これをちゃんと研究した論文がないかを探している。(メンバーでこれ系の話について聞いたことがある人が居たら教えて欲しい。)

最近パラっと概要だけ見たヒトの気質を決める遺伝子について調べてみたよという論文*1の中に、好奇心が遺伝によって左右されることを示唆していそうな記述が引用されていた気がするのでここから探してみようかとも考えている。

博士課程に居る人間でも探求心のない人が割といるような状況であると仮定すると、修士課程、学部生と高度な学位を取得するための試験等を区切りとしてみると、これらの群にはもっと探求心のない人が多いだろうと、単純に考えるとそうなりそうだが、存外私の周りを観察した経験ベースで言えば、修士課程と学部生の群を比較した際の探求心のない人の割合いはそんなに変わらないような感じがする。理系学部だからということもあるのかもしれない。

質問されて分からないことがあるのは探求心と関係ない気はするが、自身の専門に近い質問で答えられなかった話で、かつ、ちょっと調べればわかる話をずっと答えられないままで放っておくというのは探求心がなさそうな行動に見える。

そういう人間に探求心を持てと言いたいわけでも、大学まで来ているくせにもったないことをしている人たちだなと言いたいわけでもない。そういう類の話を含む本を大分前に読んだ気がする*2

探求心がないのに探求心を求められる環境に飛び込むのは辛そうだな、とふわっと思ったというだけの話である。