最近朝風呂に入っているという話

※この文章は書き始める前にタイマーで60分にセットして、これが鳴ったら途中でも投稿しなくてはならないというルールの下で書いたものです。

従って、文が尻切れトンボになっていてもご容赦ください。

 

本文:

最近は毎日の日課として早朝のランニングに加えて、朝風呂にも入っている。

早朝にランニングをするのは高校からの習慣で、米国ネーパーヴィルという区域で0時間目体育と称して朝7時からけっこうハードな有酸素運動をさせた後から授業をするようにしたら成績が伸びましたよという話を参考に、学校成績を向上させるべく始めたものである。*1

丁度昨日に友人と「就活で有利になるためにサークルを選んだりボランティア活動をする奴はあざとくて好かん」と深夜まで喋り倒していたのに、私はけっこうその「好かん側の人間」のように打算的に何かを始めることが少なくない。

ただ、最近追加されたこの朝風呂の習慣は何か明確なメリットを期待して始めたものではなくて、単純に風呂が好きだけど寝る直前に入ってしまうと返って寝付けなくなる*2

という事情で入浴を朝に持ってきたというだけの話である。

 

朝風呂に入っているときには同時にワイヤレスヘッドホンでYoutubeにつないで15~20分程度のラジオ番組を聴いていて、それが終わると一度風呂場から出てヘッドホンを外して体をちょっと冷やして、また湯船に戻ってさっきまで聴いていた番組の内容についてぼーっと考えるというのがルーティンとなっている。ちょっと冷やすのに意図はないが、割と全裸で冷気に晒されるのが嫌いではないのでその性癖が出てついついやってしまっている行動なのではないかなと勝手に反省している。

 

今日の朝、風呂で聴いたのはお笑いコンビ「ロザン」のYoutubeチャンネルのもので、*3

内容としては「文章を構成するためには国語力と数学力の両方が必要で、文章を0から構築して完結させるまでの枠をつくる作業は数学力によるものだから、文章を書きだせるようになりたければまずは数学力を先に磨いたほうがいいんじゃないか」というものだったと思う。

このチャンネルはあまり見たことが無かったので、いきなり数学力、国語力と言われてもその意味する範囲がよく分からなくて戸惑ってしまったが、起承転結といった型を作れるようにならないうちからその文章に配置する言葉遣いに凝っても文章は完成しないから型から勉強し始めると上手くいくんじゃないかとい言いたいんだろうと解釈した。

 

お二人はこの過程を数学の証明問題に似ているという話をしていたが、私は証明問題を解いていて、よくその数学的語彙力のなさ故にゴールまで行かないことが多々あって、文章を修飾する語彙の選択肢を広げることを「国語力を高める」と捉えるのであれば、そもそも書きたい文章を構成するのに必要な最低限の語彙を収集する「国語力を高める」過程がどっちかというと先に来る気がしていて、「数学力を最初に」というのは自身には厳しいやり方だなと感じた。

 

空手や剣道も型から始めるみたいなことを聞いたのを思い出して、それと同時に股割り(柔軟)をやるとか言ってたな、などと妄想が進み、股割はこの国語力と数学力のどっちに分類される作業なんだろうか、というか文章をつくる練習における股割に相当する部分ってあるのかしら、その活動を行う体の状態を整える活動を言うのだろうから文章を書くための集中力を鍛えることかな、

「何を楽しみに生きているの?」はこっちのセリフだと思った話

まえがき:

先月は全然ブログの投稿が出来なかった(一か月で4本)ので、今月はもう少し多く投稿したいと思い、どうしたら投稿数を増やせるか考えてみた。

投稿数が増えない理由としては、「1本書くのに時間がかかり過ぎる」に集約できるが、そうなってしまった原因は主に3つあると考えられる。

  1. ブログ用の参考文献を探してくる手間
  2. 文章を冗長に書きすぎている
  3. ラジオを聞きながらでの作業である

うえから1つずつ改善策を自分なりに考えてみた結果、今月からはタイマーで60分セットして、タイマーが鳴ったら途中でも投稿するというのがいいんじゃないかと思いついた。

従って、今後のブログでは尻切れトンボで終わっているホラーの演出みたいなブログがちらほら(あるいはしばしば)見られることになってしまうことになるかもしれないが、これはある種の実験的試みなので今月いっぱいは怒られても続けようと思う。(誰も怒るようなメンバーはいないと思うけど)

今回のブログもタイマーで60分セットしてよーいドンで書き始めているので、さっさと本文に入ろうと思う。

 

本文:

両親とは毎日のようにLINEをしているので生存アピールは出来ているとは思うのだが、毎週土日のLINEはこちらが暇だと知っているのか結構しつこいことが多い。

LINEをしているとは言っても既読をつけているだけなので、土日だけ返信しているからそのときにしつこく返されるのは、まぁそれはそうだろうという感じはするので、その点には何も感じないのだが、毎回「何してるの?生きてる?」という親のコメントに対して「生きてます。勉強してます。」と返すので、このパターンに飽きたのか今日はとうとう「何を楽しみに生きているの?」という変化球コメントが父上からかえってきた。

こんな質問をLINEで気軽に聞くとはノリの軽いおっさんだなと思いつつ、面白い質問だと感じたので既読だけつけた状態で数時間放っておいて考えてみた。

余談ではあるが、メールは小3レベルの読解力で読める文章のときに返信率が最も高くなるという米国での調査結果があるらしい。*1

「何を楽しみに生きているの?」という問いはそこだけを切り取って額面通りに受け取れば、私が楽しみにしていること、つまり「勉強なり実験なりをして知らなかったことを知ることを楽しみに生きているよ」と返すのが適当に思える。

しかし、その前のやりとりで「勉強してます。」と毎週散々言ってきたのにも関わらずそういう問いを投げてくると言うことは、父親はその「勉強してます」と「楽しんで生きています」を繋げて考えていないと想像でき、恐らくLINEで一行勉強を楽しんでいるのだ、という旨を伝えたところで納得はしない可能性は高そうに感じる。従って、この質問にストレートに答えるのはやり取りをこじらせる面倒事の種であると判断し、何か父上の納得しそうな嘘っぽくない私の生き甲斐を一発返信して、金輪際この面倒な問答を封じることを方針として考えることにした。

お勉強が突き抜けてできるわけでもなくて、それでも勉強を頑張っている中高生はいっぱいいて、そういう人は部活で汗水流している不良よりも卑屈で、周りの大人からも「勉強ばっかしてないで少しは子供らしく○○しなさい」と言われて可哀そう、そんな風潮おかしくね?みたいな内容の本を去年の今頃くらいに読んだのをちょっと思い出した。*2

父上は博士課程に進学しながらも途中で家庭教師のバイト先の娘と結婚したような型にとらわれない奔放さを持ち合わせている人間で、ちょっと粋な回答を好む傾向にあるので私は結局「勉強の合間にお父さんとこうしてLINEして、変わらない日常のありがたみを幸せに感じているよ」と、さも波乱万丈経験者のような返信をした。

これを考える上で、難しかったのは逆に父上が何を楽しみに生きているか知らないと、相手の納得するような生き甲斐の回答は考えようが無くて難しかったという話d

 

読書感想文「ユダヤの商法」を読んで

まえがき:

久しぶりのブログ更新である気がする。ここ最近は学部の勉強から解放されて勉強したかったことを手当たり次第に始めて、大学付属図書館の方々から本を借り、現在18冊の借本が自宅の食事用テーブルを占領しているおかげで、キッチンで調理道具から直接立ち食いをする食事スタイルをとっている。

この「ユダヤの商法」作品中で、夕飯の時間を大切にできない人生は惨めであるというような記述があった気はするが、物事には過程というものがあり、お金をキチンと稼げるようになった結果夕飯が客観的に見ても充実したものとなっていくのであって、現状の私のキッチン1人立ち食いスタイルも周りから見て惨めなものに映るかもしれないが、メニューも栄養面を考慮した現状ベストと思えるものを考えてお料理を楽しんでいるので、これでも私は夕食の時間を大切にできていると勝手に思っている。

金儲けの極意はユダヤ人の思想にあって、あの日本マクドナルドを創業したお金持ちの私が実践した例を交えながらユダヤ思想の金儲けにおける応用法を教えますよ、というのがこの自己啓発本のとっているスタンスで、学部を卒業し就職して公務員になる友人へのプレゼント用に購入した。

これをプレゼントとして選んだ理由としては、たぶん公務員だからあまりがつがつ儲けようという感じではないであろうし、こんな本を自分から手に取って読むこともないだろうというのが1つ。また、世の金儲け主義連中が一度は通りそうなベタな本を一読しておき、そういった人種に今後遭遇したときの困惑を少しでも緩和してくれるといいなという免疫獲得を願う意味も込めて、この本を選んだ。

私は本を人にプレゼントするにあたって、一度中身を確認するというのがエチケットだと思っている性質なので、今回はそういう経緯でこの読書感想文を書くに至った。

 

本文:

この作品を読んでまず第一に思ったことは、「マック食いたいな。」である。

正直、あまりに有名な本だったので人伝になんとなく内容を聞いてしまっていたこともあって、読んだところで大した衝撃を受けることもなかった。この本を読んで感動して藤田田に会いに行った孫正義さんが高校生だった時代はこの外国人の考え方は斬新なものであったのかもしれないが、現代っ子の私が見たところで薄っすら聞いたことある話がいっぱい載ってるなという感想しか覚えなかった。

藤田田の前提知識については日本マクドナルド創業者の人くらいの認識しかなかったので、それがマクドナルドに行きつくまで何をやっていたかという歴史を知れたというのは、教養としてためになったなとは思うが、これを読んで考え方が変わるような衝撃は受けなかった。ユダヤの思想が正しい根拠として5000年の歴史を持ち出し過ぎてくどいなとも感じた。

この本でかなり頭に残った部分としては、病気は気のせいである、という教えである。こんな恐るるべき健康軽視の思想を平気で本に書いてしまうあたり、ユダヤ人ではなく近代の日本人だなと感じたし、これを真に受けたサラリーマンによって「うつ病は怠け病で気のせい」といった空気の流れをつくってしまうようなことになっていたとしたら、ユダヤ思想にとっても日本社会にとっても害悪でしかないなと強い不快感を覚えた。金持ちですごく努力した方なのだろうなという印象は受けたが、現代の実績があるタイプの老害の原型をここに見た気がした。

食事は腰を据えてじっくり楽しむべきだというユダヤ思想とマクドナルドのような飲食店はルールに反するのではないかという指摘に対する反論として、昼は仕事の時間だからここでの食事は手軽に済ませて夜に楽しめばいい、昼に軽食を提供するマクドナルドはルールに反しない、といったあまり納得できない部分もあって、後半は読むのがしんどいところもチラホラあった。プレゼント用にと買ったが、あまり魅力的なプレゼントではない気がしてきて本当に渡すべきかちょっと迷っている。

が、ユニクロの創業者、ソフトバンクの創業者に強い影響を与えたのがこの本だという帯の謳い文句が本当であれば、この本の近代日本的解釈を通した似非ユダヤ思想が根底に流れているであろうこれらの会社には就職したくないなと思ったし、そういう意味で今日本で天下を取っている会社思想への免疫を付けるワクチンとして渡す価値はあるかな、とワクチン推しでプレゼントする方針で考え直そうと思った。

時間泥棒をしてはいけないという考え方は、この札幌脳学校の活動を始めてから色々な方に再三注意されてきたことなので、時間の使い方や相手の時間を尊重するという点は本を読みながら改めて反省した。

結局この本から私が新しく学べたことは、藤田田の歴史ばかりで、どうして今更新装版が復刻されて今売られ始めたのかがよく分からない、時代遅れな本だなと思った。

 

あとがき:

本をプレゼントするお友達とは今後もう二度と会うことは無いと思ってはいますが、ちょっとでも役に立ったら嬉しいなというスタンスで本は選んでいるので、けっこう悪い点を多めにした感想になってしまいましたが読んでみる価値はある本だとは思っています。卒業おめでとうございます。お互い強く生きていきましょう。

 

honto.jp

 

※読むのがめんどい場合用

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ナルシシストがウザいのは自分が大好きだからではなく、自分の大好きな自分をみんなも好きだよねを強要するからだと思う話

まえがき:

札幌脳学校では月に一度「オフ会」と称して、普段オンライン上でしかやり取りのないメンバー同士が集まり、一緒に食事をしたり、それぞれの最近勉強してきた内容を報告するオフラインでの会合を活動の1つとしている。現在(2021年2月)は新型コロナウイスルス感染対策により、この会合をZoom上で行う「オンライン全校集会」で代替しているが、正直な話、この会合は物理的に近い距離で会うことにより親交を深めて、オンライン上での普段の活動をより円滑にすることを目的とした活動なので、オフラインをオンラインに置換せざるを得ないのは致命的だと感じている。(物理的な距離がコミュニケーション頻度に負の相関があるという話は割と有名*1で、個人的にも周りで友人ができるまでの過程を観測する中で、関係の構築に個人間の物理的距離を近づける工程は触媒のような要素があると感じているためこのような発想の活動を設けた。)

オンライン全校集会になってからのメリットというのも一応あって、わざわざ会場まで足を運んでもらわなくていいということ、開催時間の融通がオフラインのときよりも利くことなどがあると感じている。

しかし、昨日の2月オンライン全校集会で新たに(個人的な性質に依存する)デメリットをまた1つ見つけてしまった。それは、いつでも参加できるというアクセスのしやすさと自宅から外に出ず参加できると言う環境から、油断してとんでもない遅刻をしやすいということである。

昨日起こった事件を例に挙げようと思う。

私は午前中から午後15時半くらいまで研究室で実験をしており、そこから16時ごろに切り上げて帰宅し、そこから20時に開催する予定であったオンライン全校集会に向けて発表資料を作成しようとしていたが、おおよそ話す内容も頭の中でまとまっており、まだ時間もあるし実験で疲れたので一休みしようと、タイマーを15分と1時間二段構えでセットした上でベッドに横になった。次に意識が戻ったときに時計を見ると21時12分を示していた。

もしこれが会場を設定してのオフ会であったなら、私は研究室から帰宅することなく、研究室でそのまま資料を作成し、適当に弁当なりお茶なりを喫して時間を潰し、会場に向かって定刻通りに開始できたとと思うが、オンラインで会場へのアクセスは最悪どうにでもなるという油断が今回の大遅刻につながったと考えている。

余談ではあるが、睡眠時間が短いのは健康上悪影響であることは有名な話ではあるが、寝すぎることによっても認知機能低下や精神・神経疾患のリスクが上がる可能性があるという話もされている*2

寝坊による遅刻に関して、久しぶりに来てくれたメンバーもいたようなので、本当に申し訳ない気持ちにはなったが、落ち込んで自分を責めようという気は微塵も起らなかった。

 

本文:

私は自分が他の誰よりも大好きである。なので、何かしらミスをしてしまってもそれに対して申し訳ないなとは感じるものの、そこから自己嫌悪に陥るような経験は幸運なことにいまだにない。

それと冒頭に書いた遅刻癖の話はまた別の話だとは思うが、遅刻してどう反省して今後改善するべきかを考えているときに、ふと思い浮かんだのが自己肯定感にはストレス緩衝的な作用がありそうだという話*3であった。

こういう大遅刻のような明白に自分に落ち度のある失敗をしたときに、めちゃくちゃ落ち込んでしまう友人が私にはいる。彼がいまの自分の立場に置かれたなら、肩を落として、口をへの字に曲げて、いつも以上に猫背になって黙り込んでしばらくの時間過ごすのではないかと、自分が遅刻したくせにそんな妄想が遅刻を認知した瞬間から始まっていた。この横道の妄想から、彼と自分の違いは何だろうと考え、自己肯定感に関する妄想へと移ったという大変友人に対して失礼な経緯があって自分大好き論に妄想が至ったのである。

経験上、「ナルシシスト」という表現を肯定的に使われていることはあまりないように思える。というのも、「お前ナルシシストだよね」という感じで相手をけなす際に使う表現を多く観測してきて、自称ナルシシストでそれを肯定的な文脈で使用している例を私があまり見たことがないからであると考えられる。

自己肯定感が高いことと「ナルシシスト」は何が違うんだろうと考えたときに、「ナルシシスト」認定をして人をけなすときというのは、その人が自身の好きな点をお前も好きだよねと押し付けてアピールしてきているときなのではないかと考え至った。

自分が大好きなのは勝手にすればいいと思うが、「自分が大好きな自分をみんなも好きでしょ」という周りへの押し付けというのがウザいので、「ナルシシスト」は嫌われるのであると考えたのである。

これはより一般化して考えることが出来る問題で、「空気の研究*4」という本で見た感情移入の絶対化という話にも通じることではないかと思った。

自分の好きなものは相手も好きだよねという思い込みに基づく押し付けは大体ウザいということが言いたいのである。

私は、自分のことを自分でけなしてそれを公に発表する人間も、このウザい「ナルシシスト」の類だと考えており、「負のナルシシスト」と呼んでいる。「ナルシシスト」が

嫌われるという一般認識が広がっているせいかあまり、こちらのタイプを見かけることは言うほど多くは無いが、「負のナルシシスト」はSNS上では結構見かけるように思う。対応が面倒なので、このタイプの「ナルシシスト」もみんなに嫌われるものだという共通認識が早く定着しないかなと思っているが、これは私が苦手なだけで周りは案外めんどくさいとは思っていないのかもしれないので、これ以上は語らない。

要するに、「自分が何を好きであるか」とそれを「周りに押し付けようとするか」は別の問題であり、周りに好きなものを押し付ける人間の内、押し付ける好きなものが自分自身であるのが「ナルシシスト」なだけで、押し付けずに勝手に自分大好きでいる分には問題ないだろうと思ったという話であった。

 

あとがき:

2月オンライン全校集会に参加しようと思っていたメンバーの皆さま、遅刻して本当にすみませんでした。それに関しては反省しています。ただ、落ち込んではいないので気にしないでいただきたいですし、また遅刻するかもしれません(火に油)。二度とないように対策はしていきますが、約束は難しいです。

こんな私ですが今後ともどうぞよろしくお願い致します。

バレンタインデーに臭過ぎる部屋で餃子を食い散らかす高慢なオタクが一人…の話

まえがき:

「三つ子の魂百まで」でいう「三つ子」は数え年での年齢なので、正味2歳までに一生続く性格が決まってしまうという恐ろしい諺がある。しかし、もっと恐ろしいことに生まれもっての遺伝という要素のために育ちではどうしようもない性質(数学的な才能などが有名*1である)があったり、さらにその前の子供をつくる段階においても、親の年齢によって子供の将来的な疾患にかかるリスクが分子レベルで左右されるのではないかという話もあって、地球星人の中で、男はいくつになっても若い嫁をもらって子供をつくれるから大丈夫でしょう、的な記述を見かけたが、男でも加齢とともに精子の質が低下して、歳を取った男親の子供は神経発達障害のリスクが高くなる可能性が言われ始めているらしい*2。諭吉はそんなことを知らなかったであろうし、結局「学問ノススメ」*3の内容に慶應義塾への入学勧誘的側面があったと考えられる以上、学歴を盲目的に信仰してお勉強バカになったとしても貴賤をひっくり返せる保証は何もないと適当に諦め、成り上がりの手段としてではなく純粋に生まれつきのバカなりに学問を楽しみ人類の叡智に感謝して慎ましく暮らすということが、育ちも生まれも生まれる前も最早変えられない段階に来た人間の取るべき態度ではないかと思い始めている今日この頃である。

ダラダラと書いたが、つまり私は上記のような考えの元、あんまり一生懸命努力したとしても人間としての根本的な部分は変わらない歳になってしまった、と20代前半にして余生を送っているような気分に浸っており、どうせ変われないを免罪符に生活のあらゆる面で怠惰な毎日を送っているのである。

 

本文:

ところで、昨日はバレンタインデーであった。前もって頼んでおけば知人女性からチョコレートが奢ってもらえる可能性の高いこのイベントが私は大好きである。義理チョコという文化が滅びない限り、私は何人の女性に予約をしてもこの日だけは許されるので日本人の慣例には何となく従う気質に毎年感謝するのが私にとってのバレンタインデーである。

今年はすっかり予約を忘れており、唯一前日の23:00頃に予約した友人にも断られてしまったので、地味に人生初で1つもチョコレートを貰えないバレンタインデーを経験することとなった。バレンタイン当日に予約するというのもおかしな話だと考え、予約はこれ以上しなかったので、恐らく今日の朝に外出してもチョコレートを貰えることはないだろうと諦めている。予約していなかったのであるから当然の話である。

予約による義理チョコがなくても本命のチョコレートの可能性がまだ残っているではないかと思われる方もいるかもしれないが、私がこれまでの人生で家族以外から本命という名目でもらったチョコは2つで、1つは醤油とからしを練りこんであり食べた私のリアクションをみて笑うための「毒チョコ」で、もう1つは誰にでも本命を配るマドンナ気取りに土下座して得たお情けの「本命」チョコであった。つまり、一般的な定義での本命チョコは貰ったことは無く、これに期待は出来ない。

そもそも私は女性を魅了するような生活を送っておらず、大変散らかった部屋に住んでいるうえに、ここ最近はしばらく生ごみを捨てていなかったので部屋がかなり臭くなっていた。特に消費期限切れの生肉の放つ異臭は強烈で、洗濯物にまでその匂いがつくと外でご迷惑をおかけすると思い、換気扇を回した風呂場に洗濯物は非難させているような状態が2週間くらい続いていた。そんな劣悪な環境であっても、日中あまり家に居ないこともあって掃除は後回しになっており、自炊がメインなのでかさ高いプラゴミなどが積み重なることもなく、ゴミ自体が部屋を圧迫はしていなかったので、生ゴミ捨てさえも後回しになっていた。

バレンタインデーではあるものの、予約を回収する用事もなく、他の外出予定もなかった私は、その臭い部屋でダラダラと一日勉強をして過ごすことにした。

 

チョコレートの予約はし忘れていたが、日曜に行われる無料オンラインセミナーの予約はしていたので退屈することは無かった。オンラインセミナーの内容は「医療通訳」についてで、3時間講義を受けたりディスカッションをしたりで休憩は5分のみという結構ハードな時間設定であった。私は学部卒業後に大学院留学を考えており、今年は英語を磨く年にしようと思い、適当に英語を使いそうな無料のセミナーにノリで参加したという背景があった。(札幌国際プラザのサイト*4から参加した。)

初級のセミナーを予約したうえに内容が医療関係で、20ヵ国くらいの留学生と遊んでいた経験のある私は、他の参加者にはまぁ遅れは取らないだろうと思って事前に配られていたテキストに目を通すこともなく参加したが、このセミナーを通して、いかに自分のしていた英会話のレベルが低く、医療の知識について乏しいかを痛感することとなったのであるがこれを書くと文字数が倍になるので今回は割愛する。

とにかく日中は、セミナーをうけて自分の能力に対する過信を改めて思い知り、臭い部屋に住む根拠のない自身によって自惚れたモテないオタクである現状を深く胸に刻み込んだのである。

 

セミナー終了後、自分の不甲斐なさを悔しいとは思ったし、この悔しさを共有する相手もいないのでちょっとだけ泣きそうになっていたが、性根が腐っているのでそこから寝っ転がってYoutubeを見始め、そのまま数分もしないうちに寝落ちして、気が付いたら夜の20時になっていた。

正味何もしていなくても、腹は減るものである。暗くなった臭い部屋で目覚めた私はまず冷蔵庫を開けてその灯りを頼りに部屋の電灯のスイッチまでたどり着き、開けっぱなしの冷蔵庫からありあわせの材料を取り出して餃子をつくった。ハマっているアイドルの日向坂46のキャプテンがよく餃子をつくっているのをみて、いつもいいなと思っていたというのも餃子作成のモチベーションとしてあったのかもしれない。

餃子と白飯という組み合わせに酢をかけて、いただきますも言わずにキッチンで立ったまま、急ぐ意味もないのにかきこむようにして夕飯を胃に詰め込んだ。

 

振り返るとしょうもない一日だったと思いながら、臭い部屋の高慢なオタクという現状をちょっとでも改善すべく生ゴミを捨てに行き、ほんの少しだけ本を読んで勉強して、これまでの怠惰過ぎる生活を改めて余生をもうちょっと楽しくするよう反省したのであった。

 

あとがき:

毎週日曜日は何かしら反省している気がするので、これもこの歳ではもう変えられないどうしようもないことなのかもしれません。しかし、今回内容の説明を割愛したセミナーでは、おじさんおばさんが間違えを恐れず積極的に学ぶ姿勢を示して活き活きと参加されていて、たとえ結果的に変化が生じなかったとしても余生を楽しくするという意味で今以上にもっと真剣に勉強するのも悪くないのかなと思いました。

何もしてないおすねかじり虫の若造のくせに老け込んでいるのはただのバカですよね。

今週「こそ」頑張って生きていこうと思います。

読書感想文「地球星人」を読んで

※極力内容には触れないように気を遣ったつもりですが、以下に小説のネタバレが一部含まれている可能性もあるのでご注意ください。

 

小説を読んで声を出して笑ったのは久しぶりのことで、長時間ぶっ通しで本を読んだ(19時から23時くらいまで)が、読後感としてはすごく爽快な気分が残った。それくらいに大いに笑わせてもらった作品であった。

 

この作品を読もうと思った背景としては、札幌脳学校のTwitterアカウントでフォローしている面識のない方のツイートでこの本を見つけ、そのツイートについているリプライ欄でも本の内容が「考えさせられる」という趣旨で絶賛されているのを見て、これは面白そうだと思い購入に至った。面識のない方々の噂に触発されての行動である。

これは本を書店で手に取ってから気づいたことではあったのだが、この著者は過去に芥川賞を獲った方らしく、本には芥川賞受賞作を超える衝撃のラスト!的な文言がデカデカと書いてある大層な帯が巻き付いていて、レジに並んでいる最中に「またミーハーな買い物をしてしまったな」と自身の変えられない性分による浪費癖を少々反省した。

 

この本を買う際には他の本と一緒に購入したため、買ったその日には読まず、購入してから1週間後の散々Youtubeを見てスクリーンを見飽きるようなタイミングが訪れた怠惰な一日の終わりにようやく本を開いた。本を読むのにはかなりの体力を必要とする性分なので、日の終盤に本を読むという重労働ができるくらいに相当ダラダラした挙句の夜であった。

 

そのような状態で読み始めてからは、あまり考え込むことはなくサラッと読める感じの作品で、読み終わるまでに4時間もかかってしまったのは、途中で眠くなってきて、睡魔と戦いつつブログで書ける程度には頭に内容を入れようと努力した結果で、眠たくない朝に読めばもっと早く読み終わったんじゃないかという読みやすい文章であった。

内容的にも言うほど考えさせられるかな?考えさせられている人間はもっと普段から人付き合いや人の内心について慮って生きた方が良いんじゃないかな?というのが率直な感想で、この本に深い意味を見出した読者はどの記述からそのような思考に至ったのか、そっちの方に興味が沸いた。

私は多分、この本で言う「地球星人」サイドの人間で、その枠「工場」というシステムにおいてあまり苦痛を感じたことが無い人生を送ってきた為にか、どうしてそうなってしまったのか理解できなかった部分がいくつかあった。中でも最も印象的だったのが、「工場」という社会の構造を見出した主人公一派が「工場」を抜け出そうという発想を持ちながら「工場」サイドの人間の中でもゴリゴリの親族が所有権を有する土地に寄生して、そこで脱「工場」勢の繁栄などを夢想してしまう能天気かつ無計画ぶりが垣間見える点である。脱「工場」を目指す主人公一派は、その親族及び所属コミュニティに問題があって社会は「工場」だみたいな思考に至ったのであるから、どうせ蒸発するつもりなら、せめてもうちょっとその「工場」思想形成の原因となった人間の生活圏内との関係が薄そうな地域に向かうという発想にならないものかねと率直に思ってしまった。なんでずっと関東と長野でウロウロしているんだろう、なんで関東と長野辺りで生きた経験則しか持ってないくせに「地球星人」という大きな主語で人間全体をくくる思想を展開できるんだろう、なんで女性器が「工場」の為のパーツだと思いながらいつまでも「撤去」しようという発想は出ないのだろう、なんでホームレスにはなろうとしないであくまで家に拘ってるんだろう、と色々な疑問が湧きまくった。もしかしたらちゃんと読めてないのかもしれないという不安が強い。

爆笑した点としては、幼少期主人公視点からの人間関係のあるあるポイント観察が秀逸で、レイザーラモンRGさんのネタを見ているときと似たような感覚で、さんざん引っ張った末のちょこっとあるあるという構造が私にとってかなりツボだった。私はこんなに親戚付き合いが密な家庭ではないので、親戚の集まりあるあるを描写しているパートは、なるほど、そういうものなのかと勉強になった。

私はこの小説が、日本人あるあるを詰め込んだうえでサイコパス感をざっくり盛り込んだ、コメディとして解釈した。

 

読み終わって、いったん眠ってからもう一度内容を思い出してみるに、この本はある程度日本人としての常識があって責任感のある人間でないとこの世界観に没入できないのかなと感じた。また、これが売れているということは、この本を面白いと思って周りにお勧めしていたりする人も多いんじゃないかとも想像できるが、正直私はもう一回読みたいとは思わないし、お勧めするほど面白くはなかったかなと思っている。

が、人気の本だという評価は使えそうなので、誰か適当なお気に入りの女の子にプレゼントしようかなと考えている地球星人的な発想を読後も続ける私であった。

 

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医療経済の講義を受けたのに内容と関係ない陰謀論を引用した感想文

本文:

講義に参加するにあたり、予習として図書館でミクロ経済学の本を一章だけ読んで参加した。というのも、それくらい私は経済学が何をしているのかについて全く知識が無く、前提が無いと講義についていけないのではないかという不安があったためである。

実際に講義を受け終わった後の率直な感想を言えば、主に保険制度とそれが上手く機能しているかの評価指標の話だったんじゃないかなというもので、「経済学とは」という本を読んでアダムスミスの辺りまで予習していた私としては、その予習は方向性の間違った予習であった気がしていた。

その誤算は嬉しさ半分期待外れ感半分といった具合で、ネガティブな方の感想で言うともっと目新しい分野についての話が聞けると思っていたのに結局これまで勉強した制度についての話の詳細でしかなかったなというもので、ポジティブな方の感想で言うと医療行為も無償の慈善活動ではないのでお金の話は切っても切り離せないため、その配分を論理的に詰めて作られてきたのが現状の保険制度であり、その具体的な機能が患者及び医療者双方にどのような経済的相互作用を生む仕組みとなっているか曖昧だった点を明確化して教えていただけたので、今後医療従事者にならないとしてもかなり役に立つ話が聞けたうえに、現状の専門家から見た問題点も分かって、ワイドショーの自称専門家が発信する情報を疑う材料や陰謀論に振り回されない適切な知識が得られてよかったな、というものであった。

 

陰謀論という話で言うと、「医者が自身の利益のために一度使うと止められない高額な向精神薬(ここに挙げられる薬は、他にも抗がん剤生活習慣病改善薬までバリエーションは色々あるが)を、病気になっていなくてもバンバン処方して儲けている。標準医療は悪。」といった主張があり、インターネット上はおろか、弊学部の図書室にある医師による著書にもこの手の論が訴えられているのを見つけている。

この主張は国民皆保険制度で税金によって定義の広範な医療費を賄うというシステムと、高齢化により医療費が増加しているのに対して病気になりにくく医療費のかからない労働者人口が減っていて、今後医療費削減のために病気になる人を減らそうという方針が地域医療の中にも盛り込まれており口うるさいほどに生活習慣病予防が叫ばれている現状を鑑みると、いかに偏ったものであるかが理解できると感じた。

一部にはそのような医師も存在するのかもしれないが、それを全体の傾向であるかのように喚くのは害悪ではないかと考えられる。基本的に標準医療が統計的に裏付けられた効果検証の研究に基づいたものであり、そうでないものよりは治療効果の期待値として高いという現状、それよりも治る「医療」があるのだと信じるのは個人の自由であると思うが、標準医療を不当に貶めることによってそのオリジナル「医療」を周知して、治療できる患者の治療機会を奪ったあげくその責任を負わないというのは、吐き気を催す邪悪ではないかと感じる。また、最終的にそのような陰謀論の尻拭いを標準医療で行い、医療費の圧迫につながってしまうと考えるとマッチポンプにも見えてきてしまう。

 

話は講義の内容からかなり逸れてしまったが、講義で医療保険制度がよく練られたものであり、その問題点の改善をすべく色々な指標で多角的に評価しているということを学んだ上で、上記のような素朴な正義心から来る陰謀論がいかに害悪であるかを強く感じたので、講義の感想としてはこのような形となった。

 

参考文献:

prtimes.jp

www.nippyo.co.jp

www.kinokuniya.co.jp