雨後の筍は孤独な僕のきのこを慰めてはくれない

※制限時間40分でブログを書いています。

 

君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる、と言うのは、君が笑えるくらいの影響力を持っていることが前提となる。ただその場しのぎでなせる勝手に周りに嫌われるような簡単かつ衝動的な暴挙への安い決意風の自己満を歌ってはいない。君が笑えるということを実現するためだけに力を蓄えたその末に自身は(君も含めて)周囲から憎まれるような存在にもなっても構わないのだという自滅も厭わない気持ち歌っている。という解釈をしたうえで、私はこの曲が嫌いである。

 

悪というのは立場上の話であるから、君が笑うために僕がなる悪は何に対しての悪なのか。上の解釈だと、君が与する方と反対の立場が悪という感じになっているが、君と僕が他の立場に対して一緒に悪になっているというパターンも考えられる。後者の悪のパターンならまだ分かる。僕の笑ってほしい君が笑うためには、何かしらの立場から見た悪グループに所属しているから、君の味方である同じ悪グループに僕も所属しますよという意味の歌になるからあんまり覚悟はいらなそうである。別に表現は悪になるじゃなくても、例えば、僕は内心きのこの山派だけど君がたけのこの里派だからたけのこの里派になる、でもいい。もっと率直な表現で言い換えれば、君とずっと一緒にいるでもいい。君が笑ってくれるなら僕はずっと一緒にいる。めっちゃダサくなった。が、これならまだ可愛い感じがする。

 

しかし、前者の悪になる場合、きのこたけのこの例を続けるのであれば、たけのこの里派の君が笑うために僕はきのこの山派筆頭になって、たけのこの里派が勝利するような八百長試合を陰で準備する、というようなことを言っていると考えられる。これは全然人間らしくないし可愛げが無い。

きのこの山派筆頭になるまでの過程でもずっと僕はたけのこの里派の君にとっての悪であり、その最終目標が君が笑うことであるのに肝心の君に僕はめちゃくちゃ嫌われることになる。そんなモチベーションのやつがきのこの山派筆頭になんて上り詰められるだろうか。仮に最初はそういうモチベーションできのこの山派閥に潜入したとしても、僕はきのこの山派で力をつけて行く過程で確実にきのこの山に愛着がわいてきてしまう。その派閥が最初は僕にとっても悪であったとしても、力をつけていく間にきのこの山派の組員達にも慕われていくだろうから、「僕さんのきのこの山派を支える姿勢、尊敬するっす」なんて後輩も出来て、君が笑うためのきのこvsたけのこ戦争の前に、君にとっての悪の組織であるきのこ派に僕の帰るべき場所、僕のファミリーが出来上がってしまい、もはや僕の中でのきのこは悪ではなくなる。そうなったときに僕は「きのこの山も悪くない、全力でこのきのこの山派に貢献していきたい」と思いはじめ、「君が笑ってくれるなら」なんて動機は忘れ去り、きのこの山派を上り詰めるための動機は「ファミリーの笑顔をみたいから」に変化していくのが自然である気がする。

 

しかし中島みゆきの「空と君のあいだに」は、僕が「君が笑ってくれるなら」の初志を貫徹し、ファミリーの笑顔を踏みにじっても、たけのこの里が勝利する八百長試合を僕にさせることを力強く歌うのである。狂気。人間の所業ではない。全然可愛くない。僕は八百長試合のあとにファミリーからも裏切り者として悪と認定されるであろうし、たけのこ派の君はもはやたけのこ派の別の男とくっついて、僕に対しては笑いかけてくれることはないだろう。踏んだり蹴ったりの僕。僕の母は恐らくそんな結末を迎えるために僕を育てたのではないと途方に暮れる。ファミリーにも母にも君にとっても悪となり果てた、君が笑ってくれた後には何も残らない。僕は、「否、君が笑ってくれたからそれでいいんだ、その君が笑ってくれたことを思い出に余生を過ごすんだ、君が笑うために頑張った過去は残るんだ」と自分に言い聞かせるかもしれないが、誰もそんな悪の僕を語り継ぎもしないし、僕はみんなに疎まれて独りで小さく死んでいくだろう。冷たくなった僕の手のひらに載っているのはたけのこ、きのこ、どっちだろうか。

 

全然注釈もつけず、脳と関係ない話をしてしまった。

みなさんはたけのこ派きのこ派どっちですか?

 

※ご本人の歌がYoutubeで探せなかったのでカバーバージョン

youtu.be