「これだから大学生は」とナメられる隙を与える話

昨日、一昨日に引き続き好きな音楽の話から始まって、もはやこのスタイルに味を占め始めたと思われても仕方ないかもしれないが、今日はOKAMOTO’Sの「うまくやれ」という楽曲についての思い出から始めようと思う。*1

この曲は高校の頃のバンドを解散して大学に入ってから知ったもので、演奏はしたことはないが、研究室からの帰路でよく聴きながら歩いていたので歌詞を覚えるまでに至った一曲である。

私のこの歌詞に対する解釈は、具体的なアドバイスは特にないしこれをすれば正解というものは正直分からないが、とりあえず遊びながら「うまくやれ」ということを言ってるだけ、というハイパー適当なものであるが、この曲で私は中庸*2という言葉を思い出す。

中庸とは、行動・考え方において極端に偏ることなくちょうどいい加減(単なる平均値や中途半端とは違う本当に妥当な加減)を見つけてそれを目指すというような意味で(この説明は雑な方に偏り過ぎたものかもしれないが)ある。この「うまくやれ」という曲単体ではとにかく遊びながらやれというようなことしか歌っていないが、言われたことに従順になり過ぎている人に向けて歌うことで中庸を促している気がするので、そういう意味で好んで聴いていた。

実際は、「適当」を「粗雑」と履き違えて、まったく話にならないような程頭がすっからかんで大した思考力を持ち合わせていない凡人が大多数で、私もその一匹でしかない以上、歌詞通りに遊び惚けて到底人間らしい中庸の実現は望むべくもないものと考えられるが、果たしてこの今私が信じている「善」はこの熱量で傾倒し続けていいものであるのか否かを疑う上でこの曲は薬になると感じている。

要約すると、この曲を聴いて真に受けて遊ぼうとは思わないけど救われる感じはあると言っているので、癒しを求める方は是非聴いてみてほしいというのがこの曲紹介での主張である。

 

さて、前置きで45分使ってしまったので残り15分で本文を書かなくてはならなくなったが、今回話題にしようと思ったのは、うまくやるためにはストレスも必要なんじゃないかなと考えたということである。

私は大学受験期に過度のストレスで消化器にダメージを受けて、受験本番直前の追い込み時期の一か月間を病院のベッドで過ごした経験があることから、いかにストレスフリーで毎日を過ごせるかを中心に考えて大学生活を過ごしてきたつもりである。

しかし、あまりにもストレスから逃れる生活をしていると、これはこれで偏った堕落人間ができあがるのではないかと恐ろしくなっているのが昨今の考えである。既存の規範に背いて堕落し続けることは難しいことであるというのは坂口安吾堕落論*3でも言われていたことであったろうか。

最近、学習をする際には神経細胞内で細胞に対するダメージへの応答で働く分子が関連していたり*4、炎症時に誘導される分子が重要な役割を果たしていそうであったり*5と、「ストレス」と思われる反応が新しいことを覚えるのに重要そうであるという話を立て続けに聞いたこともあって、ストレスも適度に受け止めていく生活にシフトした方が私にとっては中庸の実現に近づくものではないかと思い始めたのである。

まぁ要らないといってもストレスは誰かが勝手にくれるものだと思うので、ぜいたくな悩みの話をしてしまったなというところで時間切れ。