性格を発表する暇があったら好き嫌いについて語ってほしいと思う話

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このブログを何個か読んでくださっている方にはお察しいただけているかもしれないが、聞かれてもいない話をダラダラとしてしまい、怒られることがよくある。

余計なことまで話す理由としては、その話をしている間に私なりに相手の様子を観察(話を聞いてるときの目線、相槌の頻度・音程、姿勢、表情等)していたり、次にどういう話をしたら相手のターンに出来るかを考えたりする時間を稼いだり、単純に喋るのが気持ちよくなってしまっていたりと色々なケースが挙げられるが、不評である場合が少なくないので、ここ1年間くらいからではあるが意識的に無駄なく話す方法を考えている。

自分語りは快感につながるらしいという話(※1)は聞いたことがあって、自身の話をし過ぎて相手のターンを奪うことが無いように気を付けてはいるが、どうにも自語りを抑制できずにベラベラと過去の武勇伝で間を埋める私が嫌いなタイプのおじさんになっていることもしばしばある。

札幌脳学校の唯一の入会条件として「校長との面談」を設定しているので、これまで札幌脳学校関係だけでも知らない人と1対1で喋る機会に恵まれていることもあり、喋ることへの苦手意識は薄くなってきたが、それは喋るということに対する不快感に馴化しただけであって、会話能力は上達していない。

余談ではあるが、この不快感、苦手意識は場数を踏むことで馴化していき薄めていくことが出来るという偏見は線虫の実験(※2)と経験から見出した話である。

そういったお喋り修行中であるという背景もあって、私は以前よりも、他人のお喋りにおける無駄だなと思う要素も気にしてしまうようになっていて、特に性格を自己申告する時間は要らないのではないかと感じている。

というのも、性格はその人の言動を観察してみてこちらが判断していくものであると思っているからである。自己申告される性格はあくまで、こう見られているとその人が勝手に思っていることか、その性格の単語に付随するイメージを戦略的に植え付けてきているかのどちらかである、と私は思っているので、ノイズだと思ってその情報はあまり聞いていない。

その性格を申告するに至ったエピソードの導入として使うのであれば、申告する意味はよく分かるが、「人見知りなんですよね」の一言で終わらせるのは情報として少なすぎて反応に困ってしまう。

結局性格の発表は、相手がこちらに形成する印象への方向付けを狙った小賢しいトラップか、その一言でこちらを察せよという傲慢な態度と受け取り、性格に関して言及されると少し身構えてしまうので、友達になろうとする会話ではどちらにせよ印象が良くないと私は感じている。

性格を自己申告した後に理由となるエピソードが来るパターンの性格発表を聞いてきた経験上、そのエピソードの内容は第三者との体験談であることが多く、今後ここにいる私とあなたとの関係性が今提示されたエピソードに近い傾向になっていくかどうかは、性格を発表された段階では分からないと思うので、これも情報として薄い気がする。

つまり、性格を発表した後にそう思うに至った理由を語ろうが語るまいが、情報としては薄い、と私は思ってしまうのである。

なので、性格の話を抜く場合の代替案として、好きなもの・嫌いなものの話をする方が話を広げやすいし、今の状態を相手に伝えてその場の会話を楽しむという意味でも、よっぽど建設的だと私は思う。(ただし、その好き嫌い(特に好き)を不変的なものとして捉えるのは危険なので、その場限りのものと考えるよう気を付けている(※3))

思う・感じるが連発されていることからお察しいただけるように、今回のブログは(も)、完全に愚痴&ど偏見の回である。

愚痴るに至った原因となる出来事には一切触れるつもりはなかったが、途中脳学校の面談の話を出してしまったので断りとして、「この愚痴を書くに至った出来事と脳学校面談は全く関係がありませんのでメンバーの方々はご安心ください。」と最後に添える。

 

※1

wired.jp

※2

www.ncbi.nlm.nih.gov

※3

www.hayakawa-online.co.jp