Youtube依存症の克服を諦めた話

本文:

基本的に私は動くのが嫌いな「怠け者」であり、休日も自己投資に充てようと計画だけを立てて結局何も生まないタイプの凡人(か、それ以下)の人間である。今日、昨日と一日中寝転がって読書すらせずにずっと寝転がってYoutubeを見て、寝落ちして、お腹が減ったら簡単な調理で済むご飯をYoutubeを聞きながら作って、ベッドの上で食べて、洗い物もせずに歯だけ磨いてまた寝っ転がってYoutubeをみての繰り返しで過ごしている。

少し前に、こういったデジタルコンテンツによる依存症に関する本を読んで、これらのコンテンツが巧妙に人間を依存させるようにデザインされており、デキる人間は時間やお金を搾取されないようにデバイスの使用制限をする(※1)といったことは知っていたが、この様である。分かっていても止められないのが依存症であり、それを少しでも解消するために、デバイスを物理的に隔離してしまうとか、Youtubeはアンインストールしてしまうとか、具体的な対処方法もこの本には書かれていて、それを実践してはみたものの、結局ネットにアクセスできるデバイスを全てぶち壊さない限りこの悪癖は断たれないというのが、弱い私の場合の結論である。

学校に通っている内は、とりあえずこの悪癖を完全に断ち切るのは現実的に無理そうなので、こういった休日の過ごし方を許容してしまうことで精神衛生上の健康を取ることにした。

というわけで、私はYoutube依存症の克服を諦めてここ2日間のような怠惰な生活をしばしば送っていて、そんな日はブログに書けるような(ましてや脳に絡めて参考資料を提示して書けるような)話題は生まれるわけが無いので、ブログは書かない方が吉だとは思っていたのだが、過去に読んだ本でこの依存症ネタ一回分は書けるなと思って短めではあるものの投稿することにした。

余談ではあるが、Youtubeのコメント欄で「共感性羞恥」という言葉をよく目にしていて、知らない言葉だったのでざっくり調べてみた(※2)が、どうにも調べてみた言葉に対する私の解釈と、コメント欄での運用方法が合わないことが少なくない。

この「共感性羞恥」の意味するところは、「他人が恥ずかしさを感じているときに、その恥ずかしさを自分も共感すること」だと私は解釈した。対してコメント欄でよくみる運用例では「見ていてこちらが恥ずかしくなる」といった意味で使われていることが多く、実際動画に出てくる人物が恥ずかしがっているかは問題になっていない。共感という言葉に引っ張られて、動画上の人物が別に恥ずかしがらずに恥ずかしい行動をしていることに対して「共感性羞恥で見てられない」といったコメントを見ると、かなり違和感を感じてしまう。実際どっちが本来の意味に近いのかはよく分からないが、見るに堪えないを全部「共感性羞恥だ」というのは何だか気持ちが悪い。共感性羞恥に詳しい方がいたら是非正しい言葉の意味を教えていただきたい。

とりとめのない感じになってしまったが、Youtubeを8時間近くみた後に書いている文章なのでご容赦いただきたい。

 

※1

www.diamond.co.jp

※2

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy1926/77/2/77_2_97/_pdf