Youtube依存症の克服を諦めた話

本文:

基本的に私は動くのが嫌いな「怠け者」であり、休日も自己投資に充てようと計画だけを立てて結局何も生まないタイプの凡人(か、それ以下)の人間である。今日、昨日と一日中寝転がって読書すらせずにずっと寝転がってYoutubeを見て、寝落ちして、お腹が減ったら簡単な調理で済むご飯をYoutubeを聞きながら作って、ベッドの上で食べて、洗い物もせずに歯だけ磨いてまた寝っ転がってYoutubeをみての繰り返しで過ごしている。

少し前に、こういったデジタルコンテンツによる依存症に関する本を読んで、これらのコンテンツが巧妙に人間を依存させるようにデザインされており、デキる人間は時間やお金を搾取されないようにデバイスの使用制限をする(※1)といったことは知っていたが、この様である。分かっていても止められないのが依存症であり、それを少しでも解消するために、デバイスを物理的に隔離してしまうとか、Youtubeはアンインストールしてしまうとか、具体的な対処方法もこの本には書かれていて、それを実践してはみたものの、結局ネットにアクセスできるデバイスを全てぶち壊さない限りこの悪癖は断たれないというのが、弱い私の場合の結論である。

学校に通っている内は、とりあえずこの悪癖を完全に断ち切るのは現実的に無理そうなので、こういった休日の過ごし方を許容してしまうことで精神衛生上の健康を取ることにした。

というわけで、私はYoutube依存症の克服を諦めてここ2日間のような怠惰な生活をしばしば送っていて、そんな日はブログに書けるような(ましてや脳に絡めて参考資料を提示して書けるような)話題は生まれるわけが無いので、ブログは書かない方が吉だとは思っていたのだが、過去に読んだ本でこの依存症ネタ一回分は書けるなと思って短めではあるものの投稿することにした。

余談ではあるが、Youtubeのコメント欄で「共感性羞恥」という言葉をよく目にしていて、知らない言葉だったのでざっくり調べてみた(※2)が、どうにも調べてみた言葉に対する私の解釈と、コメント欄での運用方法が合わないことが少なくない。

この「共感性羞恥」の意味するところは、「他人が恥ずかしさを感じているときに、その恥ずかしさを自分も共感すること」だと私は解釈した。対してコメント欄でよくみる運用例では「見ていてこちらが恥ずかしくなる」といった意味で使われていることが多く、実際動画に出てくる人物が恥ずかしがっているかは問題になっていない。共感という言葉に引っ張られて、動画上の人物が別に恥ずかしがらずに恥ずかしい行動をしていることに対して「共感性羞恥で見てられない」といったコメントを見ると、かなり違和感を感じてしまう。実際どっちが本来の意味に近いのかはよく分からないが、見るに堪えないを全部「共感性羞恥だ」というのは何だか気持ちが悪い。共感性羞恥に詳しい方がいたら是非正しい言葉の意味を教えていただきたい。

とりとめのない感じになってしまったが、Youtubeを8時間近くみた後に書いている文章なのでご容赦いただきたい。

 

※1

www.diamond.co.jp

※2

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy1926/77/2/77_2_97/_pdf

ゴム手袋をつけた指先に静電気が走った話

まえがき:

いい歳こいてお年玉を頂いているので、最近臨時でたくさんのお金が入った。かつて私はススキノのとある風俗店でアルバイトをしていた経験があるが、当時の自給で換算して15時間分程いただいた。(いくらかはご想像にお任せする)

その風俗バイト15時間分のお年玉の1/4は、本を買うのに使ってしまった。

今回購入した本は今後読み終わってからブログのネタとして紹介していこうと考えているが、ジャンルで言うと「電気」に関わる本を3冊、高校の社会科の参考書を2冊、某大型書店で入手した。書店にて本を購入する際には毎回全く興味のない一冊を雰囲気で適当に買うという「遊び」を入れるが、このセレクションは前もって買おうと予定していた本ばかりで、無駄遣いをする余地を含めなかったのが悔やまれる。

そんなわけで、学校のテストから解放された今日からは「電気」と社会について勉強し始めた。学部の方針状、私の学年はテスト期間中研究室に行ってはならないことになっていたので、今日はある種の小さな社会への復帰の初日でもあった。

 

本文:

研究室における私の立場は下っ端から数えて2番目くらいのもので、去年の秋に入った後輩2人と同期1人を除いて後は全員先輩といった状況である。実験動物を扱う研究室なので(実験動物使うかは関係ないものなのかもしれないが)、土日でも動物のお世話等で室員は誰かしらは必ず来る。そんな中、私は一か月近く先輩らと会っていなかったので気まずさを少しは感じるのではないかと心配をしていたが、全くもってそんなものは感じなかった。みんなが毎日通うコミュニティに急に通わなくなってから復帰する際のダルさに慣れてしまったのか。

余談ではあるが、慢性的なストレスによる神経伝達の変化には内因性カンナビノイド(自分の体が産生する大麻成分様物質)が関わっているという記事(※1)を先々月に読んで、嫌なことを克服するにはその嫌なことにある一定期間さらされて別に死ぬほどの脅威じゃないと自分をその恐怖に馴化させていく必要があるのかな等と考えていた。意識していたわけでは無かったが、その記事を読む以前から割とそういった恐怖に対する免疫をつけるべく色々なことに挑戦はしてきていて、今回休み明けの気まずさを感じなかったのにもそれが効いてるんじゃないかなと勝手に考えている。

そんなわけで、一か月顔を出さなかったコミュニティにシレっと復帰したが、実験をするには十分な下準備が整っていなかった(動物を適齢期に育てたり色々ある)ので、今日は培地をつくってデスクを整理する程度で済ませることにした。培地は基本的に材料を混ぜて温めて型に流して固めるだけで出来るが、温めたり固めるのに若干待ち時間があるので、お年玉で買った本を読んだり、ボーっとしたりとダラダラしていた。ずっと本を読み続けずボーっとする時間を入れたのはあえてのことで、実験動物全般で連続で学習するよりも適宜休憩を入れて学習した方が長期的に記憶に残りやすいといわれていること(※2)を考慮して計画的にボケっとしていた。(本当は線虫の学習に関する論文中で引用されている文献でこの話は知ったが、単語だけ覚えてソースを忘れてしまった。)

待ち時間に読んだ本のジャンルは生体電流についての本(※3)で、待ち時間中には知っている話の部分までしか読めなかった。が、早く家に帰りたかったので待ち時間は延長せず作業に戻った。

培地づくりの作業中は、培地に余計な微生物が入り込まないようにクリーンベンチという無菌で操作できるUFOキャッチャーの中に手だけ突っ込めるようになっている感じの台でゴム手袋をするなどして操作をする。新型コロナで散々感染に配慮する生活を強いられているが、マスクをしてゴム手袋も消毒して無菌の環境で作業をしている私がいま自粛状態だななどと余計なことを考えながら手を動かしていた。その作業中に、パチッと指先に静電気が走った。冬場にありがちなことなので一瞬スルーしたが、冷静に痛んだ指先を見るとばっちりゴム手袋がはまっている。意味が分からなかった。ゴムは電気を流さないと、絶縁体であると習ったじゃないか。ちょっとマニアックな先生は、めちゃくちゃ電圧をあげれば電気が流れないこともないよとか言っていた気はするが、ゴムで出来た手袋を介して人体にまで電気を流すような電圧が特に操作もなしに生じるものかしら。確かにクリーンベンチ内は細菌が入らないように風が吹いていて持っている培地用のシャーレもプラスチックだし、静電気が生じやすそうな感じはあるけどゴム手袋貫通してくるかね。色々と脳裏に駆け巡る疑問はあったが、私は面白い経験したなとちょっと得した気分になってそのまま作業に戻った。

 

あとがき:

ゴム手袋に穴は空いて無さそうに見えたけど、肉眼では確認できないくらい小さい穴から静電気がとかはあり得るのかもしれないなどと考えたが、電磁気は高校レベルで止まっているので結局機序はよく分からなかった。ゴム手袋ごしに静電気をくらった経験がある方、現象の説明ができる方がいらっしゃったら教えていただけると嬉しいです。

 

 

※1

http://www.jbsoc.or.jp/seika/wp-content/uploads/2013/05/83-08-03.pdf

※2

en.wikipedia.org

※3

bookclub.kodansha.co.jp

テストで頭を使わな過ぎてお腹も減らなかった話

本文:

人類の火の使用は色々な人間らしい機能の進化と結び付けられて語られる。私の知っている話では、人類が火を使用して料理をするようになって、衛生状態と栄養状態が非常に良くなり、高ランニングコストの大脳皮質を維持できるようになって、これがどんどん肥大化していったというものがある。(※1)

実際人の脳は、体重量の2%しか占めていないながらも、熱量の20%を消費する非常に燃費を食う臓器で、その機能を100%フル稼働しようとすると絶えず食事をとり続けなければならないとも考えられているらしい。(※1)

そういった雑学は知らなくても、テストなど緊張や集中した状態を保ちながら頭を働かすような作業を長時間おこなった後というのは何となくお腹が減ったり、甘いものが欲しくなるものだと思うし、私もお勉強をした後(特に数学など苦手分野で無駄に悩んだ後)にはチョコレートにイチゴミルクといった、糖尿病まっしぐらな頭の悪いおやつの食べ方をついついしてしまう。

余談ではあるが、チョコレートを食べると恋をしたような気分になるといった「チャーリーとチョコレート工場」でも使われていた有名な伝承?があって、その科学的な裏付けとしてフェニルエチルアミン(PEA)という、恋愛ホルモンっぽいと考えられている化学物質がチョコレートに含まれているからだという説は、そのPEAの経口摂取から脳への移行性の観点から考えてどうも怪しい話らしい。(※2)他にも、カンナビノイド(大麻の成分)が含まれている(※3)から幸せな気分になったり病みつきになるだとか、カテキンが緑茶の3倍含まれている(※4)から虫歯にはなりにくいし、カテキンアルツハイマー病予防になっちゃうかも(※5)だとかごちゃごちゃ言われている。色々な機能がありそうでそういう話を読むのは面白いが、私はそんなトクホみたいなノリでチョコレートを食べる人とは仲良く出来ない気がしている。というか、トクホを免罪符に不摂生している人間が苦手なのかもしれない。

本題は、頭を使った後は腹が減るという話であった。

今日は朝から夕方まで一日がかりで大学のテストがあり、テスト後の夕飯に対する期待値はかなり高かった。空腹をスパイスに美味しいごはんを食べることがお金もない、酒にも酔えない、若くしてED気味である私にとって上級に位置する愉悦であった。

しかし、薬学の学部レベルのテストというのはほとんどが暗記問題で構成されていて、きっちり覚えてしまえば全て秒で解ける問題しか出ないケースが少なくなく、今日のテスト「も」やはり大して頭を使うことはなく、それが朝から夕方まで続こうとお腹が減ることは無かった。今日のテストのために、去年の12月から1か月程度暗記をちょっとずつ継続していたわけだが、その暗記をした甲斐を感じるような問題は1つもなかった。どうせなら、もっと教科書を読んでマニアックなところを余分に勉強しておいた方が後々ためになったんじゃないかとすら思った。こんなにイキり散らしておいて不合格だったら目も当てられないが、それはそれで黒歴史として面白いのでフリとしても今は散々イキるポーズを続けようと考えている。

お腹も減らず、テストも面白くなかったので、今日の晩御飯は卵かけご飯に納豆を入れる、たまなっとうライスにした。

明日からは薬学の勉強を置いといて、無線と電磁気の勉強をしようと思う。楽しみなので早く寝る。(1日起きていたので疲れてはいる)

 

※1

www.youtube.com

 

※2

news.yahoo.co.jp

 

※3

www.scienceofcooking.com

※4

www.asakura.co.jp

※5

www.ishiyaku.co.jp

1000円カットで散髪したら毎度強豪校の女子バスケ部員っぽくされる話

本文:

身だしなみに無頓着であり、パジャマで講義を受けてあまり喋ったことのない同級生に注意されたこともある私は、散髪に関しては1000円カットで済ませている。しかも、散髪の頻度は3か月に1回なので、正味月に散髪にかかる費用は333円程度であるという計算になる。最近(といっても去年の10月くらいの話だが)、数理社会学会の監修する「美容資本」(※1)という本を買って、身だしなみを整えるとどれくらい生活する上でいいことがありそうか、統計的なデータを見ようとしたが、序章までに世帯収入の平均にして147.6万円程度多いという話を見て、ある程度才能も必要でばらつきも多いであろう美容の分野に投資しても150万円弱「しか」年収に影響しない(平均より下の見た目がデフォルトならこれよりも高い影響も見込めなそう)なら、大人しく最低限清潔にだけして勉強している方が人生豊かになるかなと思い、序章で読むことを中断してしまっている。この本自体は数理社会学会が30年分のデータを統計的に解析して見えてきたことを書いている本なのでとっても面白い試みだとは思うし、見た目が生活に与える影響に興味がある人は是非読んでみて欲しい。(脳学校メンバーで借りたい人は私までご連絡ください)が、やっぱりどうにも見た目に力を入れてお金をかける気にはなれない。

そんなわけで、今日(2020年1月6日)散髪に行った際もやっぱり1000円カットで済ませてしまった。カットモデルに応募するという0円で散髪してもらう裏技っぽい手段も2年前までは使っていたが、散髪に時間がかかるし予約しなければいけないし気が利いてないのに変に会話してこようとしてくるしでストレスが勝るので、時短とストレス軽減を考慮した上で1000円カットを選んでいる。私のよく行く1000円カットは初老のおじさんが一人で接客をしており、おじさんの機嫌がよほど良い時には話しかけてきて若干うざいが、そうでないときには黙って迅速に注文した条件を最低限満たした髪型にしていただける。今日のおじさんは、年明けの影響か機嫌がよく、けっこううざい感じであった。この店は気に入っているのでここ2~3年通っているが、散髪頻度が3ヶ月に1回なうえときどき浮気するので、全然おじさんは私を覚えない。何回目かの学生さんですか?の質問に対して、私は今回ちょっとしたチャレンジ精神であえて薬学生であることを付け加えた自己紹介をしたところ、おじさんの機嫌が良かったこともあり会話を展開することになった。適当に架空の薬学生ライフを話していたので会話の内容はほとんど記憶していないが、「ちなみにさ、痩せる薬とかってないの?」という質問に対して、湘南美容外科クリニックでGLP-1アナログ(新しめの糖尿病の薬)が肥満治療目的で適応外処方されていた(※2)ことを思い出して「糖尿病の薬ですかね」と答えたことは鮮明に記憶している。(ちなみに私はこのGLP-1ダイエットは米国の超肥満体型人間向けのもので、ダイエット方法としてきらびやかに宣伝することはあまりよくないと思っている)他にも頭に浮かんだ薬として、脳に効いて食欲を無くすマジンドールという薬(※3)もあったが、説明が面倒そうで、かつ、伝わらなそうなのでボツにした。かくして、会話も乗り切り、ブラシ付き掃除機で頭に残った毛髪切片を回収していただいた後に帰宅して鏡をみて仕上がりを確認したところ、案の定強豪校の女子バスケ部員のような、スポーティーな女子の短髪の感じになっていた。毎度この髪型に仕上げる再現性はプロの技の賜物であるなと今日も感心したのであった。

※1

www.keisoshobo.co.jp

※2

www.s-b-c-biyougeka.net

※3

medical.nikkeibp.co.jp

走りながらカラスを見て妄想を広げた話

まえがき:

数年前に、インプットも重要だがとにかくアウトプットだ!3:7の7でアウトプットをせよ!と言う主張が飛び交う意識の高いコミュニティでちょっと年上のお兄さん方と遊んでいた影響もあって、考えていることを外に出すというような行為を練習してきたが、中身がスカスカな人間がアウトプットをしたところですかしっ屁のようなしょうもないゴミを生産するのに時間をかけてしまうだけだという気がしている今日この頃。年齢的にも当時遊んでいたお兄さんと同じくらいになっていると思うが、アウトプットをしろと周りにお勧めできるほどインプットが捗っていない自身に焦りを感じつつ、ブログのネタが無いままパソコンの前に座って、適当に打ち込みながらアウトプットするもの(しかも脳に関連しそうな話)を考えている。

そういえば、私は中学までバスケ部に所属していて、なんとなく動いた後の方が気持ちよくお勉強に集中できることを直観的に学んでいた(※1)ので、バスケ部をやめて毎日半強制的に運動する機会を失った高校以降は、一日に少なくとも3kmはランニングすることを習慣としている。なんとなく走っているのを見られるのが気恥ずかしいので、なるべく深夜・早朝といった出歩く人の少ない時間帯に、日中人通りが多いような太めの歩道を走っている。毎日のように夜に駆けているわけである。(紅白で見て書きたくなった※2)現在は札幌の某国立大学の周辺をランニングコースとして採用していて、私が走るような時間帯にはそのキャンパス内に生い茂る木々に札幌市内のカラスがひしめき合うような感じで集まっている。

今回はこの札幌のカラスをランニング中に観察して思った感想をブログとして書くことにしようと思う。

 

※1 運動すると脳によさげであるという裏付けとなるような話が載っている本

www.nhk-book.co.jp

※2「:夜に駆けている」という文言の元ネタ


YOASOBI「夜に駆ける」 Official Music Video

 

本文:

ランニングをしている時間帯が夜から早朝であるという話を先に書いたが、より具体的に言えばランニング中に日の出を迎えるように計画して走っており(走って体が温まってくるのと周りが明るくなっていくのが同時に進む感じが心地よいため)、カラスがいる「森」にまで差し掛かる頃には、ちょうどカラスらが森から街へゴミを突っつきに出発するようなタイミングと重なる。私が森に到着するかしないかという時に少し先の上空に黒い群れがバサバサと飛び立っていくのをよく観測する。カラスが先ほどまでいたであろう木の下は出したてほやほやでまだ乾いていない白いフンまみれになっていて、寝起きで夜間消化しきった食物を排泄してから出発していく感じは人間と変わらない様である。ただ、そこで不思議に思ったことがいくつかあった。この私がランニングコースとしている森は通学路でもあり、午後10時ごろにこの森を通った際にはカラスは見当たらなかった。冬なので葉は枯れ落ちており、夜中でも街灯がついていて、木にカラスが止まっていれば見逃すとは考えにくい環境である。鳥目という言葉があることから、夜間にカラスが長距離を飛ぶことは無さそうだと直観的に思ってしまうが、街の灯りを頼りに飛行しようと思えば夜中でも街を飛ぶことが出来て、散々夜更かしした挙句に家路につくカラスの絵がふと浮かんだ。しかし、やっぱり夜中に明るい街中で空を見上げてもカラスは飛んでいないし、あの夜10時には居なかったカラスが夜明け直前に森に集まっているのが何とも不思議である。カラスは各々散らばった場所に巣を持っていて、夜明け前に一旦そこの森に集まってから、街のごみを突っつきに一斉に飛び立つのだろうか。だとしたら、なんのためにわざわざ集まるのか。カラス同士で集まって突っつくゴミの区域を分担する相談でもしているのだろうか。そんな集会を行えるような結束力が仮にあるなら、みんなで一致団結して弱そうな人間一匹狩るくらいのギャング組織があってもおかしくないんじゃなかろうか。それとも、自分より大きなマンモスを狩る人間のような野蛮な真似はしない温厚な性質の集団何だろうか。あるいはやろうと思えば狩れるけどゴミを漁る方がエネルギー的にコスパがいいと思っているから食べ物があるうちは集団での狩りは行わない方針なだけで、いよいよ人間狩った方が美味しいよねということを学んだカラスは人間の捕食者に回るんじゃないだろうか。

などと、走っている間にグルグルと妄想していた。

結局、カラスがどこから来たかはいまだに謎で、相変わらずカラスに集団で狩られそうになる気配はないので、明日もまたカラスのいる森にランニングをしに行こうと思う。

 

あとがき:

他にもブログでは書きにくい妄想を展開していましたが、この季節の札幌は足元にも注意して走らないと簡単に滑って転んで骨折するので、皆さまには走ることに集中してランニングすることをお勧めします。最後まで読んでいただきありがとうございました。

シャーデンフロイデをくすぐる作りをテレビドラマで見つけた話

まえがき:

一昨年の秋に脳学校メンバーからお借りした、ダニエル・カーネマン著の「ファスト&スロー」で読んだ内容に「プライミング」という概念があった。これは、前に得た情報によって認知や行動がその影響を受けるといった感じの概念で、例えば、「グレー」「杖」「年金」のような「老化」に関連する単語のリストを見た人は、その単語を見たと覚えていなくても、老化とは全然関係のない単語リストを見た人よりも動きが無意識のうちに遅くなってしまうらしい。認知的な側面の例では、食事に関する単語のリストを見た後に、「so〇p」という穴埋め課題をやると、soup(スープ)と補いがちになるといった例が挙げられていた。(単語のリストを変えれば石鹸を意味するsoapと補うようにプライミングすることもできるらしい。)

そんな概念を知っていることもあって、私は外に出る前は何を見るかに気を付けるようにしていて、引っ張られたくないときには極力何も読まないし、逆に何かに注目していきたいときにはその概念に近い文献を読んで、頭をある種偏らせた(つもりである)状態で外出をする。

話は逸れるが、「ファスト&スロー」を借りたのと同時期によく分からないコンサルティングの会社のお兄さんに、「インターンに行って社会の仕組みを知った後は街中が情報の海に見えて、歩くだけでめちゃくちゃ疲れるようになる」と言われたことがあった。インターンに行こうが行くまいが元々外界は情報の海には見えていて、人間の注意というのは一定方向に決まった量の中で分配されるようになっているわけで、インターンに行くというプライミングによって前とは違ったところが気になっているだけの話で、「疲れる」は言い過ぎじゃないかな、と当時は思っていたが、もともと注意を一切使わずボーっと生きていた人間にはプライミング後に周りを見るのは疲れるものなのかもしれないと今は思う。どっちにしろ、あの量産型イケメンお兄さんは人様の時間を奪って講釈を垂れることが出来る立場の人間じゃないと思っていて、あんな人間にはなるまいと今でもあのシーンは私の中で反芻している。

まえがきが長くなったが、そのプライミングという作業を今日は「シャーデンフロイデ」という概念に対して行った後にドラマを見てみたという話が今回のブログである。

honto.jp

 

 

本文:

シャーデンフロイデとは、他人の些細な不幸について「しめしめ、ざまぁみろ」と思う、「他人の不幸は蜜の味」的な感情のことである。このシャーデンフロイデという感情の名前をざっくりと知っていた私(心理学検定1級)は、クリスマス・年末のノリでくっついてイベント終わりに壊滅的な人間関係の終わりを展開する男女を目の当たりにした際に不意にこの単語を思い出し、改めて「シャーデンフロイデ」とネットで調べてみたというのがことの発端であった。

私は趣味で心理学の一般向けの本を読むのが好きなだけで専門家ではないので、詳しいことはよく分からないが、日本語の文献なら読めるかなと思い、一つピックアップして、これを読んでみた。(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsre/16/1/16_1_36/_pdf)

この文献に書いてある内容の中で、私に残った解釈は、「男性は自己評価が低いと妬みからのシャーデンフロイデを喚起しやすく、女性は罪悪感からシャーデンフロイデは喚起されにくくはあるけど、自己愛が強いとその罪悪感からの抑制は働きにくい」ということである。

経験的にもこれは腑に落ちる内容で、確かにざまぁみろと笑っているのは自己評価の低い日陰者の男性のほうが似合う(私もこっち側の人間だと思う)し、女性が不幸な人をみて共感してしまい「ざまぁみろ」と思うのも悪いんじゃないかと思いがちになるというのも直観的に分かる(というかそうであって欲しい)し、散々周りにちやほやされて自分大好きな女性が不幸者に共感せずあざ笑うという絵も想像しやすい。なるほど、これは確からしいことを言っていそうだ、と私は思い脳学校の方にもこの記事は共有した。

これに加えて、最近読んだ「野蛮な進化心理学 : 殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎」という本の内容に、「男性は美しい女性を見過ぎると美しい女性の基準が高くなり、女性は社会的に成功している男性を見過ぎると成功していると見なされる男性の基準が高くなる」といったものがあり、これも「男は容姿にうるさくて、女は年収にうるさい」みたいな良く聞く話とマッチしていて頭に強く残っていた。

www.hakuyo-sha.co.jp

検索して、ちょっと記事を読んでドラマをみただけの話で冗長に文章を書いてしまい、ブログ読者の体力が心配なので、ここからは手短に書こうと思う。

シャーデンフロイデ」についてネットサーフィンを続けようと思っていた矢先に、母親から声を掛けられ、母親の録画したドラマを一緒に見ることになった。年内で実家にいるのは盆と正月くらいのものなので、それぐらいは嫌な顔もせず対応したかったが、一緒にドラマをみる理由として母親が挙げてくれたのが「あなたは恋愛を知らないからこれを見て学びなさい」というものだったので、私はボロクソに叩く心構えでこのドラマを見ることとなってしまった。我ながら短気で幼稚な性格である。

ドラマを見て思ったことは、このドラマはさっき学んだ心理学的手法が応用されていて、思ったより面白くみることができたというものであった。

まず、主人公?はイケメンで社長といった、自己肯定感の低い男性ならめちゃくちゃ妬みそうな設定であり、この男性は後にアルバイトにまで没落する。シャーデンフロイデをくすぐる演出である。ついでに女性からすれば「社長」というステータスの異性が見られておいしい。没落してもなお優秀なのでカバーも効いている。

また、ヒロインは当然一般的な基準から見ればかなり美しい女性が採用されていたとは思うが、ヒロインの女性も美しくすることでそこまで目立つ感じではなく、かつ、設定としてアイドルを引退したアルバイトという役で、この女の子がシンデレラストーリー的に社長と恋に落ちるが、この子自体は大して生活レベルが上がったりしない。自己肯定感の高い女性視聴者からすれば役の設定自体がシャーデンフロイデを刺激されるものであるし、そうでない女性視聴者からすれば共感しやすく社会的に成功している男性との恋を疑似体験できて気持ちいい作りになっているのであろうと感じた。

「トンカチを握った人はすべてが釘に見える」といった具合になってしまっている感も否めないが、ドラマの構造にこういった心理学的な知識の応用がきちんと織り込まれているのを感じられて、私はこのドラマを(母の意図したものとはおそらく違うカタチで)楽しむことが出来た。これまでドラマはフィクションであり子供だまし、時間の無駄だと感じていたが、ここから学ぼうと思えばできるものだなと感じ、改めて楽しく退屈せず生きていくうえでのプライミングの重要性を実感した。

www.tbs.co.jp

 

あとがき:

ライミングのまえがきでダラダラ書きすぎたことを反省したい。

要領を得ず、最後まで読んでいただきありがとうございました。

もうちょっと簡潔に書けるように工夫します。

 

読書感想文「実践版0~3歳までのモンテッソーリ教育で才能をぐんぐん伸ばす!」を読んで

まえがき:

テンポラリーという、1つのテーマについて脳学校メンバー全員で調べて、そのテーマに関する小ネタをまとめてブログにするという月一の活動用にこのブログを使い始めたがうまくいかなかったので、こちらのブログは普通に札幌脳学校の校長のブログとして、私が個人的に思ったことを書きつづる場所にするとさっき決めた。(2020年1月2日17時12分)

私も6年制過程の大学4年であり、割といろいろやらなければならない課題があるのでこのブログも不定期更新になると予想されるが、最近女性のメンバーに文才をほめられて調子に乗っている+新年であるというアホ特有のその場のノリで「校長のブログ」を書き始めることにした。脳学校という看板を使う建前上の理由として、札幌脳学校の宣伝活動の一環であるとメンバーには説明するつもりなので、内容としては多少なりとも「脳」に関連する文章を投稿していこうと考えている。

 

本を読むまでの過程:

この帰省すら自粛を要請されるご時世に私は実家に帰省して、去年となんら変わらないお正月を実家で過ごしていたので、1月2日も当然のように毎年と同様の1月2日を送っていた。

午前中は日課のランニングを済ませた後に、昼過ぎまで寝ている家族を起こさないように静かにシャワーなり身支度を整え、朝食に昨日のあまりのおせちを食べて、家族が起きるまでは正月のテレビ特番をザッピングするなり、暴飲暴食の免罪符としてお気持ち程度に筋トレをするなり、静かにダラダラと過ごしていた。

今回のタイトルとなっているモンテッソーリ教育に関する本は、このダラダラと過ごした後に祖母から借りた本なので、正直ここより上の文章は内容とはほとんど関係ない。(伏線とかでは決してない。)

「ほとんど」というのであれば少しは関連しているということで、なぜこんな読書感想文と関係ない私の1月2日の午前中の描写を加えたのか、という理由は一応ある。

その理由としては、割とありがちな実家での日常的な描写の中に急に投じられるには一般的には不自然らしい「モンテッソーリ教育」なる意識高い系のワードを、不自然には感じないような家庭の出であることをブログ読者の皆様にアピールしたかったのである。要するにマウントをとっているのである。一般大衆家庭ではワンピースのコミックスが収まるべきブックラックに、私の実家では「モンテッソーリ教育」の本が挿入されていますよ。と、言いたいがためのいやらしい前置き描写なのである。

そんな高貴な家の生まれの私なので、コミックス感覚で「実践版0~3歳までのモンテッソーリ教育で才能をぐんぐん伸ばす!」という本を、けだるい1月2日の午前中の暇つぶしに読んだ。

※本当は、祖母にお願いして、いい歳こいてお年玉代わりに買ってもらった本をわくわくしながら読んだ。買ってほしかった理由は、ざっくりモンテッソーリ教育ってどんな感じなのかを短時間で知りたかったから。祖母に選んでもらった理由は、彼女が現役のモンテッソーリ教育を実践する幼稚園関係者であるから。

 

本の感想:

実践を重視しているのか、根拠となる参考文献が一切のっておらず、いまいち信ぴょう性に欠ける本だなと思いながら見ていたが、専門書でもないので仕方ないかなと割り切って読み進めていた。それは言い過ぎなんじゃないかなと思う断定的な表現も散見され、モンテッソーリ氏に殴られても仕方ない文体だなと感じたが、基本的に赤ん坊が自立的に成長できる環境や課題を与えるのがモンテッソーリ教育なんだろうというざっくりとした解釈は得られた。赤ん坊の自立的成長を促すにはという観点で、日本人の親がやりがちであると(たぶん著者の観察や経験から)想定されている「教育」の失敗例(赤ん坊の学習機会を過保護や大人側の都合により剥奪すること、赤ん坊の行動の理由を考慮することなく大人の「常識」で叱る等)と、モンテッソーリ教育的にその場面ではどう考えるべきかが明示されていて、何をすればいいと言いいたいかはハッキリ伝わったし、読むのに時間はかからなかった。

最後の章のあたりに、モンテッソーリ教育とは関係ないところで著者が「叱ること」についての持論を展開していたが、そこがこの本の中では一番説得力のある部分だったのではないかなと感じた。「才能がぐんぐん伸ばす!」が可能であるというタイトルに対する信ぴょう性は置いといて、話としては腑に落ちる感じではあったので赤ん坊と接するうえでの考え方を学び、赤ん坊に対する「教育」の失敗例をサラッと知れるという意味では、読んで良かったなという読後感であった。

 

あとがき:

こんな構成の長文はお正月休みだから可能なのであって、全然持続可能ではないので、今後はもっと短い文を投稿します。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

今回読んだ本:

www.amazon.co.jp